「完ッ全に悪の親玉でしたなァ、狗凪さん。立派な脅迫だったぜ?」
 ケッケッケ、と笑うのは閃だ。八宵が去った後、役場の机に腰掛けた閃は、抑えきれない笑みを浮かべている。狗凪は憮然として事務椅子にもたれかかった。
 「色々あったんだ。多少こちらを警戒して貰ったほうが好都合だ。それに、いざと言う時の為に、烏天狗に貸しを作っておくのも悪くない」
 「……お前、本当に悪の総帥にでもなるつもりかよ。昔はこんな子じゃなかったのに!」
 わざとらしく天を仰ぐ閃に、狗凪が冷たい一瞥を寄越す。アレクはまぁまぁ、と口を挟んだ。
 「彼らに敵意が無いとわかって一安心だ。だけど、思った以上に外の様子は深刻みたいだね」
 アレクの言葉に、狗凪も声を落とす。
 「そうだな。これからは周囲の調査や、他所の妖かしの様子も探る必要が出て来るだろうな」
 少し考えただけでも、やることは山積みだった。なにせまとまりのない妖かしたちのことだ、こちらの思い通りになど動いてくれるはずがない。加えて外の詳しい状況は未だ不明。人間が滅亡した事象すら説明できないでいる。
 「ま、気長にやってくしかねぇんじゃねぇの? そこら辺はくなに任せるわ。あー、役場なんかにいたら息がつまる……」
 疲れた顔の狗凪とは対象的に、閃は気の抜けた欠伸をする。どこまでも無責任な言動だが、付き合いの長い狗凪にとって最早聞き慣れたものだ。
 閃は机から立ち上がると、さっさと出口に向かって歩き出した。アレクも釣られて立ち上がる。
 しかし、アレクは役場の入り口で立ち止まると、狗凪を振り返った。
 「狗凪」
 名前を呼ばれて、思わず耳を立てる。アレクは榛色の瞳を細めて微笑んだ。
 「俺からも礼を言うよ。ありがとう」
 「……どうして礼を言われなきゃいけないんだ?」
 「さっきの烏天狗のことさ。他所の土地から彼や他の妖かしを、この里の長は受け入れてくれる。俺も含めて」
 狗凪は困ったような顔をして、アレクから視線を逸らした。
 「……俺もそうだったから」
 呟いた狗凪に、アレクがわずかに目を見開く。そうか、と穏やかに笑うと、遠い土地から流れてきた狼男は、役場を去っていった。


 狗凪は役場の外に出て、小さくなっていく二人の背中を見送った。
 道の先には住宅地があり、更にその向こうには商店街や大通りが並んでいたが、人間たちがいた頃の面影はなくなりつつあった。
 唯一変わらないのは、遠くに広がる銀色の海と、夏の名残のような入道雲だけ。
 耳を澄ますと、微かにゴロゴロと遠雷が鳴っている。空気の湿り具合からすると、あと一時間もしないうちに雨が降り出すのだろう。狗凪は目を細めて入道雲の様子を眺めた。
 その時長い道の先から、こちらへやってくる影を見つけた。
 誰かがよろめきながら歩いて来る。閃かアレクが戻ってきたのかと考えたが、それにしては千鳥足だ。
 目を凝らしていた狗凪は、はっと息を飲んで、人影に向かって走り出した。
 「……灰良!」
 何かを手で探るように手を翳しながら、灰良はふらふらと歩いている。人間の町にも随分慣れて、目が見えないながら自由に歩けるようになっていたはずだ。それなのに、今の灰良はまるで何かに怯えているように震えていた。
 「おい、何をしてるんだ?」
 駆け寄った狗凪は、灰良が紙を数枚握りしめていることに気がついた。
 「……ぐ~な~ぎ~ぃ~……」
 狗凪の声を聞きつけた灰良が、握りしめている紙と同じくらいくしゃくしゃになった顔で泣き始める。何を言っているのかまるでわからない。
 「お、おば、おばぁ”ぢゃんがあぁ……」
 「おばあちゃん……磯女のことか?」
 灰良がこっくりと頷く。
 「いな、いなく、これ、ふとんの、わた、わたし読めな……」
 「とりあえず落ち着け。深呼吸してから喋ってみろ」
 しゃっくりを上げながら、灰良は震える息を吸い、吐いた。
 「お、おばあちゃんが、ど、どこにも、いないの……!」
 狗凪は瞬きした。一瞬、先程まで話していた烏天狗のことが頭をよぎる。
 何か厄介事に巻き込まれたのだろうか。
 熱気の上がるコンクリートに座り込んだ灰良は、涙を溢しながら手にした紙を狗凪に差し出した。
 「どこにもいないの、どこにも。お布団の上に、これがあって……封筒に入ってたから、き、きっとお手紙だと思う」
 受け取った紙は、強く握りしめられていたせいで所々破けているが、確かに手紙だった。狗凪は紙に視線を走らせた。短い手紙を黙読し終え、これを一体どうやって灰良に伝えたものか、頭を悩ませる。
 灰良は鼻を啜りながら、じっと俯いていた。
 「……私がいい子じゃなかったから、おばあちゃんいなくなっちゃったのかな……」
 「いや。これを読んだ限り、そうじゃないと思うが」
 「その紙に何か書いてあるの?」
 狗凪は紙を広げると、磯女の手紙を読み始めた。

 『灰良へ。これを読んでいるってことは、誰かに読み上げてもらっているんだろう。一人じゃこれを読めないだろうからね。
 さて、アタシはちょっとこの里からお暇しようかと思ってる。いつもの旅に戻るのさ。ただし今回は、アンタを連れて行けない。
 別にここが嫌になったとか、アンタが嫌いになったとかじゃないから、心配するんじゃないよ。ただ、長年の旅が体に染み付いちまってね。一箇所に寝泊まりするのがどうも慣れないんだよ。
 もちろん、ここはいい場所さ。海も近いし山もある。何より、意気地のある妖かしがいる。ずっと腰を落ち着けることも考えたけど、やっぱりアタシは根無し草。落ち着くなんて柄じゃ無いのさ。
 だけどアンタは違う。灰良、アンタはもう十分に世界を知った。人間に怯えて暮らす必要も無くなった。これからは、他の妖かしと生きていく時代だよ。それがどんな時代になるのか、例え歳経た妖かしにだってわからない。今までアタシ達は、人間あっての存在だったからね……だからアンタ達がこれからどうやって生きていくのか、誰にもわからない。
 でもねぇ。なんとかなるってアタシは信じてる。あのどうしようもない人間たちだって、これだけ凄い町や物を作ってきたんだ。妖かしが力を合わせれば、なんだって出来るだろうさ。もちろん、どんなことだって上手くいくとは限らない。その時になって戸惑ったりするだろう。そういう時、アンタが知ったり、聞いたり、学んできたことが、きっと役に立つ。年老いたババアとのつまらない旅だって、何かの手助けになるかもしれない。
 だから灰良。アンタはこの里に残って、皆の力になって欲しい。
 そして願わくば幸せになって欲しい。
 それがアタシの、最後のわがままさ。
  良かったら、この里の若長にもよろしく言っておいておくれ。最も、これを読み上げているのがその若長かもしれないけど』
 
 狗凪はそこまで読んで、口を噤んだ。
 手紙はあと数枚続いていたが、それは他の妖かしに向けた──主に、狗凪に向けた──手紙だった。急に里を去ったことに対する詫びの言葉と、灰良を頼む旨が繰り返し書かれている。
 しばらくの沈黙の後、灰良がぽつりと零す。
 「……おばあちゃんも一緒にここで暮らしたらよかったのに。狗凪は、私とおばあちゃんがここにいても、追い出したりしないよね?」
 「そりゃ、しないさ。でも……」
 狗凪は無意識に手紙の皺を伸ばしながら答えた。
 「強制はしない。誰かが住みたいと言えば住めるようにするし、出ていきたいと言えば追わない。それが理想だ」
 灰良は俯いたまま、何かを考えているようだった。
 空気が湿気を帯び始めていた。風が止まり、蒸し暑さすら覚える。道路の真ん中にしゃがみこんでいた灰良は、小さく息を吐いた。
 「……じゃあ、私、これからどうすればいいんだろ」
 傍らにいた狗凪は、手紙を丁寧に畳み、また広げてを繰り返しながら言葉を探す。わざとらしく咳払いを数度してから、意を決して灰良に向き直った。
 「強制はしないが、お願いならいくらしても構わない……この里はまだまだ中途半端だし、問題も山積みだ。正直、猫の手も借りたいくらいだ」
 独り言のような言葉に、狗凪は気恥ずかしさを覚える。
 灰良は口を開けて狗凪を見上げていた。
 「……だから、灰良。良かったら俺たちの里で、一緒に暮らさないか? 手紙にも書いてあった通り、力を貸して欲しいんだ」
 沈黙が落ちる。
 その時、生ぬるい風が道を吹き抜け、木々の葉が一斉に揺れた。
 誘われたように、ひぐらしが一段と声高く鳴き始める。入道雲は今にも雨を降らせそうなほど近くに見えた。
 突然、灰良が泣き出した。啜り泣く声は少しずつ大きくなり、やがてひぐらしに負けないほどの大声になった。何かを喋っているようだが、聞こえない。どうやら断片的にだが、『ありがとう』と言っているらしかった。
 困り果てて立ち尽くす、山犬の妖かしが一匹と、焼け付きそうなほど暑いアスファルトに泣き崩れる、人魚の妖かしが一匹。
 二つの影を包み込むように、晩夏の空は、どこまでも広がり続けていた。

 

*************



 山で一番大きな杉の天辺に登ると、まるでおもちゃが散らばるような街が一望できた。
 冷ややかな空気に入り混じって、乾いた草木の香りが鼻をくすぐった。青みがかった地平の端が少しずつ白くなっていく。
 やがて、かつて人間たちが暮らしていた街の向こう側、銀色の線が引かれた海の先から、太陽が昇りはじめた。
 朝焼けの中で、景色は刻々と色を変える。
 動物たちが夜の狩りを終え、寝床に戻っていく。どこか遠くで、名残惜しそうな犬の遠吠えが聞こえた。狗凪は目を細めて、随分曖昧になってしまった森とかつての街の面影に目を凝らした。
 今ではこの里が、随分小さな存在だと知っている。他所の土地の情報も集まりはじめているが、どこも衰退が激しく、立て直せていないらしい。
 しかし一部の妖かしたちが奮起し、新たな里を切り開いているという話も聞いた。不思議なことに、そういう土地では衰退が止まり、地脈が再び勢力を取り戻していると言う。
 報せを聞いた文乃は、それが新しい〝法〟なのだと言った。
 人間たちが自然と使っていた力は、人類の消失で行き場を無くして混乱した。しかし時を経て、地脈は再び流れを取り戻した。人々がいた頃とは違う〝流れ〟……それが〝法〟と呼ばれるのだと、文乃は狗凪に語った。
 文乃の言葉を真に受けるわけではなかったが、確かに近辺の木々や海は元の、いや、前以上の生命力を得ているように見えた。その繁殖力を見た人間がいたとすれば悲鳴を上げていただろう。あらゆる動植物が、人間たちの街という街に雪崩込んでいったのだ。
 今や海も山も、人間の存在を忘れてしまっていた。蔦に覆われた建物や看板に、その名残を見ることはできる。しかしあと数年もすれば跡形も無くなってしまうに違いない。
 だが、妖かし達の口に上るのは、今でも人間の話だった。
 やれどこそこの某は阿呆だった、どこそこの娘は可愛かった、どこそこの若者は剣の腕が立ち、仲間が斬り殺された……昔を懐かしむように、妖かし達は寄り集まっては人間の話をした。ただの酒の肴だったのかもしれない。それでも妖かし達は、事ある毎に集まって、昔の人間がいかに手強く、またずる賢かったのか、面白おかしく語って聞かせた。
 かつて退治されるだけの存在だった妖かしは、今や人類の語り部になっていた。しかしその事実を、どこか楽しんでいる風でもあった。

 新しいものも古いものも混ざり合いながら、狭い里は成長していった。
 狗凪は目を細めて、地平のその先まで見ようと努める。
 他所の土地からやってくる妖かしも後を絶たない。同じく揉め事も多く持ち込まれ、気の休まる暇が無かった。東のほうでは気の荒い牛鬼たちが、他の土地を侵略しようと結束し始めているらしい。これからどうなるのか、件を失った以上わからない。
 狗凪は思う。
 それでも、妖かしは妖かしだ。例え明日、天地がひっくり返ろうとも、最期の一瞬になろうとも、馬鹿のひとつ覚えのように踊り騒ぎ、妖怪であることを楽しむのだろう。それならば、長である自分がジタバタしてもしょうがない。開き直り、自分に与えられた使命を全うするだけだ。かつての人間たちがそうしていたように。
 諦めにも似た悟りを得て、狗凪は自嘲気味に笑った。
 「でも、結構気に入ってるんだけどな」
 誰に聞かせるでもなく呟く。何を気に入ってるのか、自分でもよくわからなかったが、妙に確信を持った言葉だった。
 その時、遠くから聞き覚えのある声が微かに聞こえてきた。
 「おーい、くなー」
 反対方向に目を向けると、山道から桐寿が手を振っているのが見えた。隣には灰良とアレクが、そして珍しいことに、やや離れた場所に閃の姿もあった。
 目を丸くしていると、桐寿が手招きした。
 「なんか、皆が烏天狗たちの歓迎会やろうって! くなも来てくれないと締まらないって、鬼たちがうるさいんだよ!」
 隣で閃が何かを言ったらしいが、距離があって聞こえない。どうやらいつもの暴言らしく、アレクが苦り切った顔で宥めていた。
 灰良は狗凪に向かって、手をメガホンのように丸めて叫んだ。
 「玄亥のおじちゃんも来るってー!」
 「……それを聞いて、行きたくなくなった」
 誰にも聞こえないほどの声量で言うと、狗凪は灰良の手を真似して答えた。
 「今、降りる!」
 大杉の頂きから飛び降りる前に、狗凪は一度だけ振り返った。
 曙光が、出来たばかりのあやかしのくにを、金色に染め上げていた。

【了】
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