可能だったはずだ、理論上は。
 薄れゆく意識の片隅で、一体何が足りなかったのか考える。いくつもの障害を排除して、漸く彼女の信頼を掴み取ったはず。だとすれば、やはりこの顔がいけなかったのだろうか。
 顔に触れると、ごわついた鱗の感覚があった。
 幾度となく煩わしいと思った鱗だ。口を開けばぎちぎちと音を立て、食事も発声もままならない。それなのに、彼女は好きだと言ってくれた。彼女の言葉は忌々しい鱗についての諸々を、全て押し流してしまった。
 「あなたはこれでいいのよ。存在する、ただそれだけで価値があるの」
 彼女は白衣を脱ぎ、寛いだ様子で度々私にこう言った。そしてこの実験がどれほど有意義で素晴らしいか聞かせてくれるのだ。
 彼女は存在の価値を説いた。この世に存在するものは、全て奇跡的な確率の上に成り立つのだと。こうやってお互いが意思を持ち、意見を交わし、認め合うこと自体が運命なのだと……。
 
 狭い楽園のような暮らしにうんざりし始めた頃、彼女にこの感情を伝えてどうなるのかを本気で考え始めた。
 彼女の熱意に応えたいと思ったのだ。だが果たして彼女に覚えるこの感情が、人間で言うところの『愛』なのかどうか、確信が持てなかった。それでも、理論上はお互いが愛し合えるはずだった。もっと詳しく言えば、人間が隣人にそうするように、創られた存在である自分も、誰かを好きになりたかった。
 同じ、奇跡的な確率の存在として。

 しかし結果は無惨なものだった。彼女の冷ややかな視線を浴びて、この肉体は緩やかに死に向かいつつある。

 彼女がするようなか弱く優しい愛撫など、こんな体でできるはずもない。十分に重ねたはずの信頼関係は、荒々しい抱擁一つで終わってしまった。
 後には彼女の悲鳴と、白く、幾度もフラッシュする銃口。見知らぬ男達と、彼らに連れ添われて部屋を出ていく彼女の姿。
 一度だけ振り返った彼女の冷やかな一瞥は、今も目蓋の裏に焼き付いている。失敗した。彼女の唇がそう告げた。それは同時に、実験体No.34552N77の私に失望した、という意味でもあった。

 誰にも開示することはできないが、この感情は嘘ではない。私は彼女が好きだ。そして彼女も私を愛していたはずだ。
 ただ一つの過ちは、彼女が私の感情の発現を許さなかった、という点だった。つまり、彼女には私からの意思表示は必要なかった。一方的に想いを告げて語れるのなら、その辺の雑草でもよかったのかもしれない。
 彼女に限った話ではない。人間は愛を知るが、その表現は驚くほど乏しい。そして自らが許したもの以外の『愛』は受け取らない。異端の愛は、困惑と怒りを持って拒絶するのだ……。

 我々の存在は奇跡だ。しかし奇跡故に、どこまで行っても交わることは無い。互いの愛になる確率はほとんどゼロに等しい。
 それでも愚かな私は、奇跡の奇跡を願わずにはいられない。いつか人間が、愛の多様性に気づくことを。そして私の感情を知ることを。

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