どんな人生でしたか、と聞かれるのが一番困った。
「どんなって……まぁ、普通ですよ」
目の前の青年は僕と向かい合わせに座っていたが、視線は窓の外に向けている。彼は未だ暗い街の夜空を眺めていた。
「普通にも色々あるでしょう」
「あったんでしょうけど、今となっては思い出せませんし……思い出しても、細やかなことですよ」
僕は整えられた彼の前髪を眺めながら、ぼんやり思う。死んでしまった今でもファミレスの雰囲気は好きだ。特に一日が入れ替わる、この時間帯を満たすような感覚が好きで、生前は良く夜明け前のファミレスに来ていた。
青年は思い出したように僕の顔を見る。
「じゃあ、未練はどうです」
「叶えてくれるんですか」
「いえ、個人的に興味があるだけです」
──この一風変わった死神と名乗る青年は、出会ったときと同じ様に、飄々と答える。死神の本来の仕事はこうやって死者と会話することだと、死んで間もない僕に言ってのけたのも彼だった。
僕たちの会話は、傍から見たらとても滑稽なものに違いない。視える人がいればの話だが。
「叶えてくれないなら、未練なんて言いませんよ」
「いじわるだなぁ。良いじゃないですか。どうせあと五時間くらいしか現世にいられないんですから」
死んだあとのシステムなど、僕にはよくわからない。死神が言うには四十九日に関係なく、一日程現世に留まらなければならないらしい。僕の場合はあと五時間ほどだという。
しかし、その五時間でできることなど無い。
というより、したいことも、無い。
そう伝えると、死神青年は悲しげに俯いた。
「困るなぁ」
そう言われたところで、僕にやりたいことなど思い浮かばない。家族とは疎遠で、葬式が終わったらそそくさと田舎に帰ってしまったし、仲が良い数人の友達とも特に話したいことは思い浮かばない。僕の空虚な人生は、目の前の死神氏を困らせているらしかった。
「過ぎてしまったものは仕方ないんですよ。でもほら、未練っていったらやりたいことでしょう。人間、何かしら思い残したことがあるんじゃないですか」
そう言われても、と僕は反論しそうになる。
本当に、僕くらい何にもない人生を送ったら、未練の一つも無いんですよ……と言いかけて、ふと思い出したことがあった。
あ、という顔をした僕に、死神はすこしばかり目を輝かせた。
「ほら、よく考えてみたら浮かぶでしょう? で、どんな未練です?」
「いや、でも……」
一転して、僕は言い淀む。あまりにも個人的すぎる未練で、見ず知らずの人に聞いてもらうのは少し恥ずかしい。
しかし死神の青年は食い下がった。
「五時間って、何をするにも微妙な時間じゃないですか。だからね、未練の大掃除だと思って話してみませんか」
僕の未練を話の種にされるのも困り物だが、残り時間をこの青年と顔を付き合わせているだけなのも気が滅入る。僕はうーんと天井を仰いで唸り、諦めてため息を付いた。
「わかりましたよ……そういえば、恋ってしたことなかったなぁ、って」
言ってしまって後悔する。だめだ、やっぱり恥ずかしい。
死神青年は目を丸くした後、妙に難しい顔をして腕を組んだ。
「恋……恋ねぇ……」
「あ、ほら。深刻に捉えないでくださいよ。そういえばってだけですから」
未練というほどのものでもない。しかし死神氏は深刻な顔をしたまま、眉を寄せて僕を見た。
「五時間じゃ難しいなぁ」
「やっぱり叶える気だったんですか?」
「うーん。まぁ、方法はありますけど」
渋い顔から一転、青年はにっこりと微笑んだ。
「僕に恋してみるっていうのはどうです?」
ファミレスを出て、わずかに明るみはじめた街を歩く。雲ひとつ無い空の下には高層ビルが、陽の光を待ちわびるように立ち並んでいた。
僕たちは宛もなく道を歩いている。最も、僕が一方的に彼を無視して歩き続けているので、死神氏は後ろを着いてきているという前提なのだが。
歩道橋の上に来た時、僕はようやく後ろを振り返る気になった。
「……どうしてそんなに早く歩くんですか?」
後を追っていたのだろう。青年ははぁはぁと息を切らせている。
死神が疲れるとは知らなかった。僕の表情を読み取ったのか、青年は不満げに鼻を鳴らした。
「やっぱりいじわるですね」
「あなたが変な提案をするからじゃないですか」
そう返すと、青年はやはり困ったような顔をして目を伏せた。
「良い考えだと思ったんですけどねぇ……」
「恋愛というものは、誰でもいいというもんじゃないんですよ」
偉そうに言いながら、僕は心にちくちくとしたものを感じている。本当は、誰でもよかったのかもしれない。
この空っぽな人生に何か一つ、温もりでもあればいい。あまりにも空疎でつまらない日々が、たった一つの記憶で良く思えるかもしれない……。
けれど生前の僕は、誰かを待ち望みながら、決して自分から動こうとはしなかった。怠惰だったのかもしれない。自分から動いても、欲しいものは決して手に入らないという不思議な確信が僕にはあった。そうやって自分が傷つくのが嫌だった。
実際は温もりはおろか、傷一つ手に入らなかったのだけれども。
ようやく息を整えたのか、死神の青年は吹っ切れたように顔を上げた。
「──よし。じゃあ、こうしましょう」
何を、と僕が言うより早く、青年が僕の手を取り、握った。ごく当たり前のように男性の手だ。青年はそのまますたすた歩き出した。
「ちょ、ちょっと……」
思わず声を上げた僕をちらりと振り返り、青年はにんまりと笑う。先ほどの無視のお返しと言わんばかりの笑顔だった。
「こうしないとあなた、自分だけ歩いて行ってしまうでしょう? それに死神は死者をきちんと見送るのが仕事なんですから」
これでいいんです、と死神の青年はどんどん歩いていく。僕は渋々彼の後に従った。
振りほどこうと思えば振りほどくことはできたかもしれない。だけどここでも自分から何かをしようとは思わなかった。
あと五時間で消えてしまうというのに、まだどこかで自分の運命を試している。
青年と僕は人気のない歩道橋を進んだ。空には夜の最後の抵抗のように、薄っすらと星が見えていた。
目覚めたばかりの街にはもう、僕と結びつくものは何一つ残されていない。
ただ、青年の手が暖かいばかりで。
「……どこに行きましょうか。近くに面白い施設でもあればいいんですけど。折角なんですから、景色のいいところに……」
死神は僕の手を引いて歩く。
僕はまるで母親に連れられる子供のように彼の後ろを歩きながら、残りの時間を数えていた。
あと五時間。
自分の終わりがたったそれだけになった今になって、僕の求めていたものが手に入った。空っぽな人生の最後に転がりこんできた温もりが、僕の手を握っている。
僕は青年の後ろ姿を眺めて歩いた。その背中が、ひどくぼやけて仕方なかった。
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