羽根ペンを置くと、自然とため息が出た。
小さな空気の移動で、部屋の埃がちらちらと舞う。イリスは椅子から立ち上がり、屋根裏の窓を開けた。
窓の外から差し込む陽光が、城下町を明るく照らし出していた。
「もうすぐお昼ね」
イリスは書きかけていた論文を置き、食材を買い出しに行こうと決めた。散歩がてらに論文をまとめるのも悪くない。
珍しく鼻歌気分で部屋を出ると、収穫月の柔らかな風が、イリスの頬を撫でた。
だが、その気分も長く続かなかった。
いつも立ち寄る食材店を覗いていると、後ろのほうで小さな話し声が聞こえた。ざわついた店内ではかき消えてしまうほどの小さな声のはずが、イリスの耳にははっきりと届いてしまう。
『あれが……』
『噂の優等生よ、確か名前が……』
『鉄面皮だよなぁ』
『本当、悪魔だわ』
くすくすと笑われた気がして、イリスは何も買わずに店を出た。
いつものように無表情に徹していたが、それがどれほどの効果をもたらすのか、イリスにはわからなかった。
学校の同級生に出会うとは。
沈んだ気持ちで屋根裏部屋のドアを開けたイリスは、一瞬その違和感に気づかなかった。
開け放たれた窓の、一番陽の当たるところに、何か犬くらい動物がうずくまっている。
真っ白な動物は、ドアの前で呆然と佇むイリスに気づき、顔を上げた。
「うむ……うん? お邪魔だったかな」
動物──純白の小さなドラゴンは、固まったままのイリスを眺めて目を細めた。
「おぉ、可愛らしい部屋の主だ。ワシは幸運だな!」
呵々と笑うドラゴンに、イリスは何度か瞬きした。夢ではない。
論文の資料として取り寄せた文献に、古(いにしえ)のドラゴンの記述があったが、まさか本物を目にするとは……。
イリスは目眩を覚えながらも、ドアを後ろ手でそっと閉めた。
「あなた……本物のドラゴンなの?」
「他の何に見える? ワシはこの大陸に残された最後のドラゴン。身体は小さいが、全てが本物じゃぞ」
「さ、触ってもいいかしら」
イリスは自分の声が上擦っているのを感じた。だが、ドラゴンは渋い顔をして唸る。
「もちろん、と言いたいのはやまやまだが……お嬢さん、怒らないで聞いてくれるかね」
「私はイリスと呼んでもらえればいいわ。それに、聞いてみないことには怒るかどうか判断できない」
「聡明じゃな。実は、ちょっと床を汚してしまったんじゃ」
「床?」
陽光に照らされた木の床に目をこらすと、わずかに赤黒い染みが見える。イリスは悲鳴を上げた。
「怪我してるじゃない……!」
「うむ……情けない話でのぉ。山間の猟師に、弓を射掛けられたんじゃ。さては白鳥とでも見間違えられたか」
「何のんきに言ってるの! 見せなさい、手当してあげる」
ドラゴンは反対側の翼をのろのろと持ち上げた。翼の付け根の鱗が、真っ赤に染まっている。
「矢は自力で抜いたが、飛ぶのが難しくての……丁度空いていたここで休んでいた、というわけじゃ」
イリスは本棚から回復魔術の本を取り出した。擦り切れるほど読み込んだ本の、折り癖のついた頁を開くと、快癒の呪文を口にする。
「世界を癒やす大樹よ、安らぎをもたらす風よ……」
意識を集中させ、怪我を撫でるイメージを作り出す。呪文を読み終わると、イリスは小さく息を吐いた。
「慣れないから上手くいかなかったかもしれないけど、少しは塞がったかしら?」
ドラゴンは恐る恐る翼を動かす。次にゆっくり立ち上がり、自分の身体を点検するようにあちこち動かした。
「おお……おお! 身体が軽い! 礼を言うぞ、イリス。お主は優れた魔術師だ!」
「別に、お礼なんていいわよ」
途端に顔が曇ったイリスに、ドラゴンは首を傾げた。
「何故だ? ワシが知っているかつての魔術師と比べても、遜色が無いほど優秀じゃぞ。それに優しい心を持っておる」
イリスは自虐的な笑みを浮かべる。
「優しい心なんて持ってないわ。私が魔術学校でなんて呼ばれているか知ってる? 『鉄面皮イリス』『悪魔』……他にもまだまだあるわよ?」
「そう自分を痛めつけるでないわ」
ドラゴンは心底哀しい目をして首を横に振った。
「それにのぅ、その優しさには根拠があるんじゃぞ」
「……根拠?」
「そうじゃ。その回復魔法の本……他の攻撃魔法の本に比べて、格段に擦り切れておる。読み込んだのじゃろう?」
イリスははっとして本を抱きかかえた。ドラゴンは穏やかな声色で続ける。
「見たところ、お主は炎や雷を操るほうが性に合っている。それなのに回復魔法を使えるのは、ひとえにイリス、お主の努力の賜物ではないのか?」
「……褒められたかったからよ。丁度今のあなたみたいに」
わざと窓のほうを向いて、イリスは呟くように言った。今まで抱え込んできたものが呼び起こされていく。
「私が優秀なのも、頑張るのも、全部褒められたいから。皆ちやほやしてくれるもの。頑張れば頑張る分だけ、私を認めてくれる。だから……」
「ワシが知っている者は、褒められれば笑うものじゃがのぉ」
ドラゴンは涙を堪える少女を見つめた。イリスは俯き、震える腕で回復魔法の本を抱き続けている。
「お主は自分を嫌な奴だと思っておろう? じゃがそんなのはな、オマケじゃ。不必要とは言わんが、ちょこっとでいい感情なんじゃ。大切なことは、素直になることじゃよ」
「素直に……」
「そう。お主の回復魔法で、ワシは元気になったぞ。それで、ワシは嬉しい。お主はどうだ?」
にんまりと笑った白いドラゴンにつられて、イリスは曖昧な表情を浮かべた。
笑っているのか、悲しんでいるのか、自分でもよくわからない。
ドラゴンは呵々と笑って、翼を広げた。
「そうそう! お主が笑うと、ワシも嬉しい。それ以上複雑になることはないんじゃよ……さて、ワシはそろそろお暇しようかの」
「え、もう?」
イリスが慌てて言う間にも、ドラゴンは窓辺によじ登る。陽光を受けた純白のドラゴンは、一度室内を振り返ると尻尾を振った。
「お互い生きていれば、また会うこともあろうて。それではさようなら、小さな天使イリス!」
羽ばたきの音を残して、ドラゴンは蒼穹に溶けていく。部屋に残されたイリスは、抱きしめていた回復魔法の本を眺めて、その場に立ち尽くしていた。
「……天使、か」
ふ、と頬が緩む。
あの説教臭いドラゴンに、また会えるだろうか?
イリスは窓の外に広がる、見慣れた街と空を眺めて思った。
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