あの小さな村がここまでになるとは、誰が予想しただろう。
山の端まで広がる村を見つめながら、烏天狗の長は湧き上がる笑みを抑えることができないでいた。かつて人間たちが恐れ、焼き討ちした烏天狗たちの集落は、今や他の妖怪を圧倒するまでに成長した。
幼くして死んだ友。人間に迫害され、殺されていった同胞たち……。彼らの無念を晴らすため、長は死に物狂いでこの集落を立て直してきた。邪魔な他の妖怪は徹底的に排除した。人間たちとは裏で協定を結び、決して干渉しないようにしてきた。
その結果がこれだ。誇らしげに見渡す村は、彼にとって値千金の価値があった。
村で働く影に、見覚えのある白い翼があった。
「里津(りつ)」
娘の名前を小さく口の中で呟く。
烏天狗の黒い翼の中にあって、その白さは明らかに異質だった。
母親の血だ。長はその翼を見る度に、愛した妻の美しさを思い出した。同時に、彼女が受けた同胞からの仕打ちも。
白い翼は異端の証。同じ言葉が、娘の里津にも聞こえてるはずだ。しかし里津は気丈にも明るく振舞っていた。長にはそれが救いだった。
久しぶりに海へ行こう、と誘ったのは里津からだった。
「どうしてまた急に」
長は突然の申し出に戸惑う。海へは山を一つ越えねばならず、烏天狗にとっても遠出だからだった。
「父様はこれからますます忙しくなるでしょう? 今のうちに、少し遊びに行ってみたいの。昔みたいに」
そう言われて、妻と娘と海へ遊びに行ったのが、もう何年も昔のことだと気づいた。確かに村の仕事が忙しく、娘にあまり構ってやれていなかった。
たまには休むのも悪くはないだろう。
翌日、他の者に引き継ぎを行い、しばらくぶりの休暇を取ることにした。里津はまるで子供のようにはしゃいでいた。しかし純白の翼を広げると、その美しさに長ははっとした。
白い鴉のことを、人間はなんと呼んでいたか。アルビノだかなんだかと呼んでいた気がする。
妻も娘も、ざくろのように赤い瞳を持っていた。烏天狗の中には、白い鴉のことを凶兆だと揶揄する輩もいた。
海を眺めていると、記憶が蘇ってくる。妻と知り合ったばかりの頃、よくこの浜で遊んでいた。波に追いつかれないように砂浜を走るという、くだらない遊びだ。ひとしきり笑い疲れた後で、妻はいつも心配そうに言った。
──私のような者と一緒にいて、貴方に迷惑がかからないかしら。
聞く度に、笑って答えた。
──俺はお前と一緒に歩みたいんだ。白枝(しろえ)。お前とだったらどこまでも行ける気がする。
事実、妻がいたからここまで来れたのだ。数々の妨害も困難も、妻と娘がいたから乗り越えられてきた……。
物思いに耽っている長の耳に、娘の声が聞こえた。
「父様」
顔を上げると、波打ち際からこちらを見ている娘がいた。
「父様。ごめんなさい。実はずっと言いたかったことがあるの。私ね……」
ざあざあと波の寄せる音がする。
娘は笑っていた。
「好きな人ができたの。私、あの村をでていこうかと思ってる」
呆然と佇む長に、里津はそう言って一度頭を下げた。
わがままを言ってごめんなさい。
里津の足元に波が打ち寄せる。妻と共にいた頃と、何ら変わらない穏やかな波。
長には頷くことしかできなかった。
顔を上げた里津は、どこかほっとしたような笑みを浮かべていた。
………
妻と一緒ならどこまでも行ける、と思ったのは嘘ではない。本音だった。
しかし妻も娘もいなくなってしまった今、自分に残されているのはあの村だけだ。白い鴉である妻子を忌み嫌った、同胞たちの村。長は苦々しい笑いが込み上がってくるのを自覚した。
俺はこれから、どこへ行けばいい?
胸の内に問うても、虚しい波の響きが返ってくるだけ。最早砂浜につけた足あとも残っていない。
漆黒の鴉は、独り己を嘲笑った。
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