蝉が鳴いている。

 じぃ、じぃ、じぃいぃ……と途切れることなく響く、どこか切ない鳴き声。夕真(ゆま)は眉根にきゅっとシワを寄せて、その古めかしい建物を見上げていた。

 じぃ、じぃ。

 建物は小さい。とても人が住めるようには見えないし、前に色々なものがごちゃごちゃと置かれている。いつも一緒に来ていたおばあちゃんは、この小さな建物を『おやしろ』と呼んでいた。
 『おやしろ』は夕真の家の近く、ちょっとした空き地の側に建てられている。夕真は時々、おばあちゃんとここで手を合わせるのが習慣になっていた。
 どうしてそんなことをするのかよくわからなかったが、おばあちゃんの真似をするのは楽しかった。
 
 だから、「今日はちょっと忙しいから、お参りは一人で行っておいで。終わったら寄り道せずに帰ってくるんだよ」と、おばあちゃんに言われた時は、内心どきどきした。『おまいり』というのがどういうものか、いまいちピンと来ない。しかしやり方を間違ってはいけない気がして、夕真は一人で緊張した。

 じぃ、じぃ、じじ、じじじぃー……。

 蝉の鳴き続ける夏の日の午後、夕真は『おやしろ』の前で立ち尽くしている。

 ──どうしよう。

 『おさいせん』を忘れてしまった。
 おばあちゃんは必ず、夕真に五円玉を持たせてくれた。『おさいせん』という名前で、いつも使うお金とはちょっと違うらしい。『おやしろ』の前に置かれている、小さな木箱に入れるのだ。夕真は『おさいせん』が箱に滑り落ちていくときの、コトコトという音が好きだった。

 しかし『おさいせん』を持たずに『おまいり』なんて、したことが無い。夕真は難しい顔をして、その『おやしろ』を見上げるしかなかった。
 家に帰って取ってこようか。しかしおばあちゃんは留守だし、お財布だって持っていってしまっているに違いない。おかあさんに聞けばくれるだろうか。
 色々なことを考えていると、不意にポケットの中のものを思い出した。

 夕真はそっとポケットに手を入れる。小さくて丸いものが、手に触れた。

 それは鈴だった。
 祖父がこの間のお祭りで買ってくれたもので、可愛らしくチリリと鳴るその鈴を、夕真は宝物のように思っていた。
 銀色の小鈴を目の前で揺らしてみる。
 これなら、『おさいせん』の箱に入るかもしれない。

 夕真は鈴を握って、『おやしろ』の前で背伸びした。『おさいせん』の箱は、子供の夕真にとって高い場所にある。つま先で立って、ようやく届くくらいの高さだ。
 鈴を箱の中に入れると、『おさいせん』の音とは違う、チリンチリンという音色が響いた。

 おばあちゃんはいつも、『おさいせん』を入れた後、手を合わせて何かを呟いていた気がする。記憶を頼りに、夕真は手を合わせた。
 
 じぃ、じじ、じぃじじじー……。

 蝉の声が一際大きく響く。強い風が吹き抜け、『おやしろ』の後ろにある森がざわざわと大きく揺れた。もうじき陽が暮れるのを思い出し、夕真は慌てて駆け出す。
 ふ、と視線を感じて『おやしろ』を振り返った。
 緋色に塗られた小さな建物と、おばあちゃんが『とりい』と呼ぶ、不思議な形をした棒。緋色の『とりい』は大小様々に並べられていて、その横には白い石で出来た動物が、ちょこんと腰を下ろしていた。

 おばあちゃんに聞くと、その動物は『おいなりさま』と呼ばれる、狐の神様なのだと言う。動物園で見た狐とは少し違うけれど、尻尾は本物と同じく、ふさふさしているように見えた。
 夕真は『おいなりさま』に向かって手を振った。

 「たからもの、あげる!」

 もう蝉の声は聞こえない。代わりに、遠くでカラスの鳴き声がする。
 暮れかかる夏の空気の中を、夕真は泳ぐように走り去っていく。その背中を、『おいなりさま』と呼ばれる石の狐が、じっと見つめていた。


******


 ──3番線のりばに、列車が参ります。ご注意ください──

 いつものアナウンスを頭上に聞きながら、ホームのベンチに足を投げ出して座る。参考書を詰め込んだ鞄が重い。肩の痛みを揉み解すと、なんだか自分が老人になった気がした。
 列車が来るまで、あと10分ほど時間がある。夕真は鞄のポケットからスマートフォンを取り出し、LINEアプリを起動させた。列車に乗り込んで玄関に着くまで、だらだら友人と会話するのが日課になりつつあった。
 すぐにグループでの会話が盛り上がる。夕真は列車が来る時刻を気にしながら、会話に集中し始めた。

 ──1番線のりばに、列車が参ります──

 スマートフォンに注意を向けたまま、夕真が立ち上がる。聞き慣れたアナウンスを頼りに、列車へと乗り込んだ。周囲の人も同じようなもので、皆スマートフォンの画面を覗き込んだりイヤフォンで音楽を聞いたりしている。
 夕暮れの駅はいつもと変わりない活気を見せていた。夕真は運良く空いた席に座ると、小さく息を吐いた。
 
 車内はそこそこに混み合っている。つり革を掴むスーツ姿の男性。ぐっすり眠り込んだ子供が起きないか見守る母親。単語帳をめくる男子高校生。夕真の隣に座った老人は、小さな鞄から文庫本を取り出して読み始めた。
 列車の空間は不思議だ。公共の場所でありながら、誰しもが自分の時間を過ごしているように感じる。
 この街に引っ越してきた当初、夕真は列車通学に慣れるまで、いつもその不思議を感じていた。かつて住んでいた場所は田舎で、通学は大体徒歩か自転車だった為、列車から見る景色は新鮮だった。
 その新鮮味も薄れ、今ではすっかり街の生活に馴染んでいる。LINEの相手は、ほとんどが引っ越し先の街で知り合った友人たちだ。
 夢中になって会話していると、充電が残りわずかになっていることに気づいた。

 『ごめん、充電残りヤバいから一旦落ちるね』
 了解という返信のスタンプを眺めてから、スマートフォンの充電を落とす。
 ガタンガタンという心地よい振動とシートの暖かさが、知らずしらずの内に眠気を誘った。鞄を抱くような形で、夕真は家までの数分間を居眠りすることに決めた。
 

 ガタンゴトン……

 ガタンゴトン……

 
 ひたすら続く振動音。うつらうつらと船を漕ぐ夕真は、わずかな異変を感じ取ったが、またすぐに眠りの世界へと戻っていく。何か忘れている。でもそんなに重要じゃない……。
 
 
 ガタンゴトン……

 ガタンゴトン……

 
 不意に、目が醒めた。

 車内は明るく、振動音が響く以外に音は無い。夜の闇の中、列車は夕真だけを乗せて走り続けている。


 ──他の人は?
 夕真は自分の肩を抱いて辺りを見回した。あれほど混み合っていた車内は、居眠りをしていた数分間で、人一人いなくなってしまっていた。
 いくら眠っていたからといって、気配も無く列車から降りていけるものだろうか?
 がらんとした車内を見渡しながら、一人夕真は首を傾げる。ひょっとしたら、自分が考えている以上に熟睡してしまったのかもしれない。
 
 しかし、アナウンスも聞こえないのはおかしい。最寄り駅の名前を聞き逃していたとしても、そろそろ次の駅に着くはずだ。それなのに、列車は走り続けている。

 
 ガタンゴトン……

 ガタンゴトン……

 
 窓の外を見ても、暗くてよくわからない。普段ならビルや特徴的な看板がいくつか見えてくる頃だが、目を凝らしてもそれらしいものは見当たらなかった。
 座席に座り直し、いつもの癖でスマートフォンを取り出す。電源を入れたが、画面は一向に明るくならない。どうやら居眠りしている間に充電が切れてしまったらしい。

 はぁ、と深い溜め息をつく。途端に退屈を覚えて、夕真は大きく背伸びした。
 誰もいない車内は異様だが、しばらく走れば次の駅に着くだろう。
 もう一眠りしようかと鞄を抱え直したところで、駅の到着を告げるアナウンスが流れ始めた。


 ──次は、きさらぎ。次の停車駅はきさらぎです……──

 
 いつもの、わざとらしいまでの明るいアナウンスではなかった。ぎょっとするくらい低い男性の声が響き渡り、夕真は思わず腰を浮かせる。
 「え? なんなの?」
 告げられた駅名に聞き覚えはなかったが、昔友人が言っていたことをふと思い出した。
 とるに足らない噂話だ。
 友達の友達から聞いたんだけど……≠ナ始まる、よくある怖い話。見覚えの無い駅に迷い込んでしまうというその話を、夕真は思い出した。
 確かその駅の名前は……。

 「……きさらぎ、駅」

 ごくり、と喉を鳴らす。
 先程アナウンスで流れた次の停車駅はきさらぎと言っていたはずだ。聞き間違いでないとするならば、噂話と同じ名前の駅に向かって、列車が走っていることになる。
 そんな名前の駅、存在するわけない。
 夕真は友人たちと交わした会話を思い出しながら、鞄を強く抱きしめた。
 きさらぎ駅なんてあるわけない。少なくとも、いつも使っている駅にそんな名前のところは無い。

 そう言えば、と顔を上げる。車掌に聞けば何かわかるかもしれない。我ながら妙案だと、夕真は先頭車両へと駆け出した。
 隣の車両へと移り、前方の車掌室を覗き込む。
 しかしそこに人影は無かった。

 「……なんで?」
 列車が無人で動いている。じわじわとせり上がっていた恐怖感が、夕真の思考を一気に塗りつぶした。
 ありえない。そんなこと。
 その場に座り込みそうになっていた夕真の耳に、甲高いブレーキ音が聞こえてきた。同時に、車体が少しずつスピードを落としていく。慌てて外を見ると、薄暗い蛍光灯の点った駅舎が姿を現した。
 「こんな古い駅、知らない……」
 泣きそうになりながら、恐る恐る立ち上がる。まるで夕真を導くように、列車の扉が開いた。

 外はしんと静まり返り、人の気配も無い。蛍光灯が無機質な灯りを放っている。
 意を決して外に出ると、ひんやりとした空気が夕真の頬を撫でた。

 改札にも人影は無く、外に出られるようだった。しかし正面を照らす灯りは頼りなく、その先には暗闇が続いている。民家や他の建物も見当たらない。
 夕真は諦めて、ホームのベンチに座った。
 頼りの綱であるスマートフォンは充電が切れたままだ。夕真は途方に暮れた。家族に連絡して迎えに来てもらうアイディアは使えそうに無い。
 
 残る道は、改札の外に出るか、もしくは列車に乗って次の駅まで行くか。
 夕真は迷い、友人から伝え聞いた怖い話を思い出そうと、記憶を辿った。 
 どうせ作り話だろうと思ってあまり聞いていなかったことを、夕真は後悔した。しかしぼんやりした記憶の中では、最終的に脱出できていた気がする。
  ──確か、線路を歩いて逃げたって言っていたような……。
 眼前の線路は、暗闇の中へ続いていた。その向こうにはうっすらとトンネルのようなものが見える。トンネルは、わずかに照らされた駅周辺の暗さとは比べ物にならないほど黒一色だった。
 
 あんな暗闇の中を歩くなんて、無理に決まっている。それならまだ改札を出て、外に助けを求めたほうがマシだ。
 でも、それよりも。
 乗ってきた列車のドアは開け放たれたまま、蛍光灯が明るく輝いている。
 動き出す気配は無いが、もう少し待てば動くかもしれない。それに、列車に乗っていれば、あのトンネルを抜けるのもさほど怖いとは思わないはずだ。
 しばらく考えた末、夕真は列車内に戻って席に座り直した。

 周囲は相変わらず闇に沈んでいる。車窓には自分の頼りない姿が映し出されているだけだ。人のいない世界に取り残された気分になりながら、夕真は命綱のようにスマートフォンを握りしめていた。
 
 その時不意に、列車のドアが閉まった。

 プシューという油圧の音と、レールが軋む音が同時に鳴る。がくん、と振動が伝わり、列車がのろのろと動き出した。
 「よ、よかった……」
 肩の力が抜ける。話の通り、永久に抜け出せない空間ではなかったようだ。
 このまま先へ進めば、隣の駅に出るだろう。そうすれば誰かしら人がいるはずだ……。
 座席にもたれ掛かりながら、夕真は安堵の息を吐いた。

 進行方向には件のトンネルがある。列車のライトが当たり、トンネルの上部を照らし出した。
 『伊佐貫』
 聞いたことも無い名前だった。そもそも夕真の通学途中に、トンネルなど存在しない。非常灯一つ点いていない無機質なトンネルは、出口が見えないほど長く続いていた。
 
 列車は緩やかにスピードを上げながら、暗闇を切り裂くように走る。レールは軋むような音を立て、その度に夕真は言いようのない恐怖に覚えた。列車に乗り込み、発車した時とは逆に、じわじわと焦燥感が増していく。

 ──もし、このまま列車を降りることができなければ。
 すぐにでも隣駅へ着くと思っていた列車は、延々と続くトンネルを走り続けている。今更降りたいと思っても、ドアすら開かない。
 そんなことあるわけがないと幾ら頭で否定しても、夕真にはレールの軋む音一つひとつが、あの『きさらぎ駅』の笑い声のような気がしてならなかった。獲物を捕らえた捕食者の笑い。恐怖から、徒歩で逃げなかった夕真をせせら笑う、得体の知れない存在……。
 
 「……いやぁ!」

 耐えきれなくなった夕真は、緊急停止ボタンを探した。だが、本来ボタンのある位置には何も見当たらない。列車はますます速度を上げ、トンネルの中を突き進んでいる。心なしか、壁が左右から迫ってきているようだ。今や軋む音は勝ち誇ったように列車内中に響き渡っている。
 泣きそうになりながら、夕真はドアの近くに座り込んだ。
 出られない。
 『きさらぎ駅』は狭間にある駅だと友人は言っていた。だから迷い込んでも脱出できる手段はある。しかしその駅を過ぎてしまえばどうなるか……。
 冗談半分で言い合っていたことを思い出し、夕真は手で顔を覆った。
 誰か、助けて!
 誰でもいい、誰か……!

 
 チリン。


 泣きながら様々なものに助けを求めていた夕真の耳に、場違いな音が聞こえた。
 小さく、それでいて透き通るような鈴の音だ。
 しかしこんな場所に鈴などあるはずもない。相変わらず列車は夕真を乗せて、どこへともしれない闇の中を疾走している。


 チリン。


 ……まただ。
 夕真は涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げた。
 何故かとても懐かしい心地になるその音は、徐々に大きくなりながら近づいてきている。辺りを見回しても、高速で走り続ける列車からは暗闇に染まったトンネルの内部しか見えない。
 チリン、と耳元で音が鳴る。
 思わず立ち上がった夕真は、眼前の光景に目をしばたかせた。

 一本しか無い線路の向こう側から、明かりが見えた。出口とは違う光の点は、徐々に大きくなりながらこちらに近づいてくる。力強い汽笛の音が、トンネル内部に響き渡る。
 「……嘘」
 それは、蒸気機関車がこちらへ向けて走ってくる音だった。

 夕真はその車体を、写真でしか見たことがなかった。黒々とした機関車はまるで雲のように蒸気を吐き出しながら迫ってくる。初めて見た蒸気機関の迫力に呑まれて、夕真は眼前に迫りくる黒い機体をぼんやりと眺めた。
 不意に、列車が震えた。
 蒸気機関車は一本の線路を、列車の進行方向とは逆に走ってくる。要するに逆走しているのだ。
 先程まで軽やかに鳴っていたレールの軋みが、今度は悲鳴のように上がりはじめる。こんなはずじゃない、嘘だ、と列車自体が戸惑っているような震え方だ。
 夕真は通路の真ん中に立ち尽くしたまま、走ってくる蒸気機関車を見つめ続けた。
 このままでは衝突する……それなのに、あまり恐怖は感じない。

 新旧の列車は、一切減速すること無く走り続ける。
 ついに夕真の乗っている列車がブレーキをかけはじめた。項が逆立つような音を立てながら減速するが、向こうの蒸気機関車は止まらない。
 やがて蒸気機関車のライトが目の前いっぱいにひろがり、夕真の意識はそれきり途絶えた。



******



 どこもかしこも真っ白だった。
 夕真は困惑ながら白い空間に立ち尽くしている。
 不思議と自分が子供であることに違和感を感じなかった。祖母が縫ってくれた手製のワンピースを着て、ビーズで出来たブレスレットをしていた、子供の頃の姿だ。
 夢のような空間の中、夕真は目の前に建っている『おやしろ』を見上げていた。
 『おやしろ』は記憶の中にあるのとまったく同じ姿で、白一色の大地に置かれていた。屋根の塗料の具合や汚れ方等、そこだけ切り抜いたように生々しい。
 
 チリン。

 鈴の音が聞こえる。どこか懐かしく、それでいて心躍るほど楽しげなその音色には聞き覚えがあった。
 「…………」
 ふと意識を横に向けると、巨大な白い狐が座っていることに気がついた。
 ふさふさな尻尾、細く鋭い眼は、『おやしろ』に置いてある『おいなりさま』にそっくりだ。『おやしろ』と同じくらい大きな狐は、どこか遠くを見つめて微動だにしない。
 夕真は素っ気ないその狐を食い入るように見つめた。
 何故かまるで怖くない。ずっと昔から知っていた近所の猫のような、飼い犬のような、不思議な感覚だ。
 しばらく無言で向かい合っていた夕真は、再び微かな鈴の音を聞いた。
 鈴の音は、狐の首元から聞こえていた。

 『……人間は、嫌いだ』

 唐突に聞こえた声は、落ち着いた大人の男性のようでもあり、老人のようでもある。夕真は特に不思議に思わず、その声を狐のものだと理解していた。
 狐が口を開いた拍子に首元の毛がわずかに動き、その隙間から小さな銀色の鈴が垣間見えた。
 あ、と夕真が目を見開く。あの日、『おさいせん』のつもりで箱に入れた鈴だった。

 『人間は嫌いだ。騒々しいし馬鹿だ』

 繰り返し言い、わずかな沈黙の後、白い狐──『おいなりさま』は夕真を見下ろし、ふ、と笑った。

 『……が、たからものの礼はせねばなるまい』

 不意に、ごうと風が吹き荒れて、夕真は思わず眼を瞑った。まるですぐ側を特急列車が通過したような激しさで、白い空間に風が吹き込む。
 倒れ込んだ夕真の頭上で、澄んだ鈴の音が小さく鳴り響き続けていた。



******



 ──誰かが、呼んでいる。
 
 ざわめきに眼を開けると、幾筋もの明かりが自分を照らしているのが見えた。懐中電灯を持った男性達が何事かしきりに騒いでいる。
 ぼうっとしていた夕真の元に、父親が息を切らせて走ってきた。
 「夕真! 無事だったのか……!」
 「おとう、さん? どうしてここに」
 空は暗く、見慣れたビルと広告の看板が見える。車のクラクションや話し声、遠くからは救急車のサイレンが、風に運ばれ聞こえた。いつもの町並みの中で、夕真は自分の身に起こったことが飲み込めないまま、寝起きのような頭で父親を眺めていた。
 「君は線路脇に倒れていたんだよ。覚えていないかい?」
 駅員らしき人物が、ほっとした表情で夕真に話しかける。
 「最初は接触事故かと思ったけど、外傷は見当たらなかった。一応救急車を呼んだから、ちゃんと病院で検査してもらってください」
 父親が神妙な顔をして頷く。
 夕真はゆっくりと起き上がり、あちこち動かしてみた。擦り傷がいくつかあるくらいで、大きな怪我や出血はなさそうだ。
 
 戻ってきた。ちゃんと戻ってこれた。
 一瞬、あの『きさらぎ駅』の不気味さを思い出してぶるりと身震いする。夕真の恐怖を読み取ったかのように、すぐ側の線路を列車が加速しながら通り過ぎていった。
 
 どこにも異常は見られないと医者から太鼓判を押されて、家路に着いたのは、それからさらに数時間後のことだった。夕真が倒れていた理由は、思春期の子供によくある貧血と立ちくらみだろうとの見立てだった。
 既に時間は深夜になろうとしている。夕真は疲れた表情で車に乗り込んだ父親に、そういえば、と話しかけた。
 「ねぇお父さん。不思議な夢を見たよ」
 「夢?」
 「うん。大きな狐さんが助けてくれた夢……」
 ハンドルを握ろうとしていた父親は、驚いた表情で夕真を見つめた。
 「本当か。こりゃおばあちゃんに電話しないといけないな」
 「おばあちゃんに? どうして」
 「いや、お前と何をしても連絡がつかなくなって、何か知ってるんじゃないかとおばあちゃんの家に電話したんだ」
 そしたら、と父親は少し苦々しい顔で続ける。
 「おばあちゃんはお前がいなくなったって随分慌ててな。お稲荷様にお願いするとか言い出したんだ」
 「……おいなりさまって、引っ越す前に家の近くにあった?」
 「よく覚えてるな。あの小さなお社だよ」
 かちり、かちりと脳の中でパズルが埋まっていく感覚がした。それでも不思議な出来事には変わりない。
 眉根にシワを寄せて考え込む夕真に、父親は小さくため息をついた。
 「俺はあんまりそういうの、信じてないんだけどな。お前がお稲荷様の夢を見たっていうなら、おばあちゃんは喜ぶだろうな」
 「……でもお父さん。お稲荷様って電車に化けたりするの?」
 夢の中で──あの『きさらぎ駅』のトンネルで、真正面からやってきた蒸気機関車はおいなりさまだったとしか思えない。ぶつかる直前に聞こえた鈴の音は、確かに昔、賽銭箱に入れたあの鈴のものだった。
 父親がちらりと夕真の横顔を見る。
 「お前、偽汽車の話を聞いたことは無いか?」
 「偽汽車?」
 初めて聞く単語に、夕真が首は傾げた。
 「そう。なんでも昔、まだ蒸気機関車が出来たばかりの頃、線路を引くために野山を開拓したんだ。それに怒った狐が、蒸気機関車に化けて出たらしい」
 夕真が小さく息を呑んだことに気づかず、父親はハンドルを切る。
 「蒸気機関車が線路を走っていると、見たこともない別の機関車が前から走ってくるんだと。慌ててブレーキをかけて停車したら、もう一方の機関車はすっと消えてしまったらしい。そんなことが何度かあって、ある日業を煮やした車掌がブレーキをかけなかったんだ……翌朝線路を見たら、狐の死体があったそうだ。化けていた狐が、人間の蒸気機関車に轢かれたってことさ」
 「それで……どうなったの?」
 「化けた狐に祟られたらいけないから、お稲荷様として祀ったんだよ。そこら辺が勝手だよなぁ。轢き殺しておいて神様にしてしまうなんて」
 でも、神様なんてそんなもんかもしれないな。
 父親の言葉は夕真の耳に届いていなかった。過ぎ去る夜の町並みを眺めながら、夕真は夢の中で出会った狐の言葉を思い返す。

 『人間は、嫌いだ』

 嫌われて当然だ。何もかも人間の都合の良いようにしておいて、祟らないでくださいとは随分勝手な言い分のような気がする。
 それでもお稲荷様は助けてくれた。例え小さな鈴のおかげであっても、夕真はその事実が嬉しかった。かつて夏の日に手を振ったことを、覚えておいてくれたのだ。

 窓の外に向かって微笑む夕真の耳に、小さな鈴の音が一度、チリンと聞こえた気がした。

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