おやすみどらごん。

 まいった、と口の中で呟いても、どうにもならなかった。

 行ったことも無い道を行くのは冒険だ。
 少なくともフィドの村からダレスの国境へ行ったことは無かった。だけど途中の旅籠はたごくらいなら見つけられるだろう……と、少しは旅に覚えがある俺は思ったのだ。
 そう、思っただけだった。
 実際の道は、複雑極まりなかった。

 フィドからダレスの間には、ミィスと呼ばれる深い森が続いている。
 ミィスは何度か耳にしたことがある地名だが、あまりいい意味で聞いたことは無い。曰く、化け物が出るとか。曰く、飢えたドラゴンが徘徊するとか。
 俺はそんな物騒な場所は避けて通りたかった。旅人として各国を渡り歩く身としては、己の安全こそ第一に確保するべきものだ。しかし俺は今、恐らくミィスの森を彷徨っている。

 森はどこまでも深く、王都では見たこともないような巨大な樹木が天上を覆っている。道というより獣道に近いわだちの跡を、見失わないように進むので精一杯だ。
 俺は鞄から地図を取り出すと、眉を寄せて睨みつけた。
 行商人から買った地図だが、デタラメだ。通りで安いと思ったが、先立つものが無かった俺はこの地図を買う以外の選択肢が存在しなかった。

 行ったことも無い道を行くのは冒険だ。だけど俺は、冒険家じゃない。
 もちろんそのことは、俺に商品とは名ばかりのゴミを押し付けた怪しい行商人にも伝えた。しかし行商人は、にやりと笑って地図を愛おしそうに撫でた。
 『そうはおっしゃいましても……私が持っている中で最高級の地図でございますよ、これは。フィドからダレスまでの道を網羅しているのは、去年王都で編集されたこの最新の地図だけでございますから』
 それに今なら特別価格です、と特有の殺し文句を添えて、行商人は営業スマイルを浮かべたのだった。

 「まぁ、そういうこともあるさ」
 俺は気分を変えるために、独り言を言ってみた。
 夜明け前から出発してかれこれ半日は、この気が滅入るほど暗い森の中を彷徨っている。いい加減どこかで休みたいが、休憩できそうな小川も見当たらない。
 ──まいった。
 もうどこでもいいから野宿できそうなところを探そう、と辺りを見回す。こんな森で一夜を明かしたくなかったが仕方が無い。
 俺は少し道を外れ、どこかに開けた場所が無いかと首を巡らせた。その時、風にまぎれて、か細い声が聴こえてきた。

 こんな深い森の中に、俺以外の誰かがいるのだろうか? 思わず立ちすくんだ俺は、続いて聞こえてきた声に慄いた。
 「だれかー! たすけてー!」
 子供の声だ。もう疑う余地は無い。
 俺は無我夢中で道に戻ると、声が聞こえてきた方角に駆け出す。行く手を遮る邪魔な草木を腕で払い除け、獣道を転がるように進んだ。
 やがて視界が開け、森が途切れる。そこは一面の花畑だった。
 「だ、だれかー! 」
 「おい! どこにいるか教えろ!」
 広大な花畑の一角で、わずかに声が大きくなる。
 「ここです! ここー!」
 「待ってろ、今行く」
 「気をつけてください! 足元に穴が空いてるんです……!」
 「わかった。なんでもいいから声を出し続けろ」
 俺は地面を見ながらゆっくりと声に近づいた。あー、とかうー、とか言う適当な言葉を頼りに歩いて行くと、すぐにぽっかりと空いた深い竪穴にたどり着いた。
 その穴の奥に、少年がうずくまっている。
 「わ……うわぁ! 本当に助けに来てくれた!」
 白い髪の少年は、ぱっと顔を綻ばせた。
 「足とか怪我してないか?」
 「はい! 大丈夫です!」
 しっかりした受け答えに、とりあえずは大丈夫そうだと俺は胸を撫で下ろした。
 「今助ける。下ろしたロープを掴め」
 持っている中で一番頑丈なロープを繋ぎ合わせ、穴に下ろす。同時に特製のブーツを脱いで素足になると、俺は深く息を吸った。
 ここは花畑。近くに岩や木のような、ロープを引っ掛ける場所がない。自分自身の力でこの子を引っ張り上げる他無いのだ。
 だが幸いなことに、俺には一つの秘策があった。
 今まで忌まわしいとしか思わなかった、この足だ。
 「行くぞ」
 声をかけ、ロープを引っ張ると、ぐ、と重みを感じた。ゆっくり力を入れると、足が地面にめり込んでいくのがわかる。それでも力を緩めずに引き続けた。
 「もう少しです、お兄さん!」
 歯を食いしばりながらロープを手繰ると、玉のような汗が滴り落ちていく。やがてじりじりとした時間の末、ようやく少年の腕が見えた。ロープを捨て、再び落ちかける少年の腕を掴むと、俺はそのまま身体を引き上げた。
 
 暫くの間は言葉が出なかった。
 花畑を渡る甘い風を嗅ぎながら、ぜぇぜぇと荒い息を吐くので精一杯だ。俺の隣で同じように寝転がっていた少年が、不意に起き上がった。
 「た、た、助かりましたぁ! ありがとうございます!」
 「あー……よかったな」
 俺の、少し照れ隠しも入ったぶっきらぼうな返しにも怯まず、少年はにこにこ笑っている。
 「お兄さん、よかったらお名前を……あれ? お兄さんの足……」
 とうとう見つかった。少しバツが悪い思いで、俺はあぐらをかいた。
 「あぁ、そうだ。俺は獣人だ」
 獣人。
 その名の通り、人間と獣の間の子だ。熊と人との間に生まれた俺は、赤茶けた毛に覆われた自分の足を疎みながら生きてきた。故郷である国を追われたのも、旅人として生きているのもそれが理由だ。
 だが、今はこの足に感謝するべきだろう。こいつがなければ俺は少年を引き上げられなかったかもしれない。
 少年は一瞬驚いた顔をしたものの、何が嬉しいのか更に笑顔になった。
 「そうだったんですね! じゃあ、僕も隠さないでいいかな」
 ……何をだ?
 俺が不審に思うより早く、少年が自分の髪の毛に手をつっこみ、わしゃわしゃとかき乱す。
 何をしているのかと思った次の瞬間、少年の頭から黒い角が二本、にょっきりと姿を表した。
 「なぁっ!?」
 驚きのあまり、俺は後ろに倒れ込んだ。少年は得意気に言う。
 「僕、実は……ドラゴンなんです!」
 どうですか、と言わんばかりに腰に手を当てている。俺はあんぐりと口を開けて、少年の角と、どこから出てきたのか真っ白な尻尾に、目を奪われていた。


*****


 少年の名はミィスというらしい。森の名前と同じだ。
 それを指摘すると少年は誇らしげに、しかしどこか恥ずかしそうに瞬きした。
 「何を隠そう、僕はこの一帯を治める竜王の息子なんです。竜王は代々ミィスの名前を名乗るのです。僕はつい最近、お父様からこの名前を譲られました」
 でも、と少年は項垂れる。表情がくるくる変わる子だ。
 「……お恥ずかしいことに、まだ飛べないんです……」
 「なるほど。それで穴に落ちたのか」
 花畑に空いた穴は鮮やかな草花に覆われていて、一見すると穴が空いているようには見えない。ミィスでなくても落ちてしまいそうだ。そう指摘したが、ミィスは強く首を横に振った。
 「違います! 僕がちゃんとしていたら……ちゃんと眠れていたら、こんな穴になんて落ちませんでした!」
 「眠れていたら? なんだ、不眠症か?」
 冗談で言った言葉に、ミィスは真顔で頷く。よくみると、目の下にくまらしきものが見えた。本当に不眠症らしい。
 「子供なのに? 寝れないなんて大変だな」
 「うう、こう見えてもお兄さんよりは年上ですよ、たぶん。そうだ、お兄さんの名前を聞くのがまだでしたね」
 「俺はベズワル。〝熊の子ベズワル〟さ」
 蔑まれてきた名前を口にすると、ミィスは目を輝かせた。
 「……かっこいいです!」
 「はぁ?」
 「くまさん、強くてかっこいいじゃないですか! お兄さんの足も力強くて羨ましいです!」
 俺は思わず自分の足を見た。毛深く、黒々とした爪が生えている足に長年苦しめられてきたが、かっこいいと言われたのは初めてだ。
 「ドラゴンだって、鱗や爪はあるだろ」
 「ありますけど、僕はまだまだ子供だから、お父様にもお兄さんにも叶いません……だから、たくさん食べて、たくさん寝て、立派なドラゴンになりたいんです!」
 そう言ってミィスは意気込む。しかしまたすぐに項垂れた。
 「ここに来たのも、花畑に咲くこの白い花が眠りを誘うって噂を聞いたからなんです」
 「この花が?」
 辺り一面に広がる小さくて可憐な花。柔らかな草の上にちょこんと咲いている姿は、小さな鈴が転がっているようだ。心地よい風に運ばれて、甘い香りが漂っている。確かにこれは眠くなる。俺は思わずあくびを噛み殺した。
 「そんな話を聞いていたら、眠くなってきたな……」
 「えぇっ!? そうなんですか?」
 「お前は眠くならないのか? こんなにいい天気で、いい香りがしていて、地面は柔らかくて……」
 自分で言っておいてなんだが、うとうとしてきた。太陽の暖かさが、洗いたての毛布を思わせる。
 ミィスは困ったような顔をして俺を眺めていたが、やがて認めた。
 「そう言われれば、眠いかもしれません……あたまがふわふわしてきました……」
 周囲には動物やモンスターの影も無い。俺は少ない荷物の中から、愛用しているマントを取り出した。厚手で、どんな使い方をしても滅多なことでは破けない特殊な布で出来ている。それを草むらに広げると、ミィスに手招きした。
 「じゃあここで寝ろ。俺も近くで休む」
 「えぇっ!? こんな野原でですか!?」
 「どうせ家に帰っても寝れないんだろ? だったら眠たい時に寝ていたほうがいい」
 こんなに開けた場所なら、モンスターに襲われる心配も無いだろう。それに、俺はわずかな音でも起きれる自信がある。この耳と、どこでも寝れるこの丈夫な身体があったから、旅を続けてこれたようなものだ。
 安心しろ、万が一敵が来ても俺が起こすからと言うと、ミィスは戸惑った顔をしながらも頷いた。
 「そう、ですね……じゃあ、お言葉に甘えて」
 横になったミィスが深呼吸する。そしてふへ、と蕩けた笑みを浮かべた。
 「あぁー……あったかいです……」
 目を瞑り、息を吸い込む。どうやら早くも眠りの国に片足を突っ込んでいるようだ。俺もマントの端で横になった。
 途端に、草と土の香りが鼻を刺激する。汗ばんだ体が、大地と空気で程よく冷やされていく。そこに陽光が降り注ぎ、俺の意識はあっという間に眠りに誘われていった。

 うつら、うつらと、まぶたが落ちそうで落ちない感覚。どこかに永遠に落下していくような、不安になるような、それでいて安心できるような、眠る直前の前後不覚。
 その時ふと、腰に何かがしがみついたような気がして、俺はわずかに眠りの国から引き戻された。
 すぅ、すぅ、と規則正しい寝息が聞こえてくる。ミィスが寝返りを打ち、そのはずみで俺の背中に顔を埋めていた。
 「……ふわふわ……」
 何事か呟いて、そのまま睡眠を続行したらしい。何がふわふわなのか考えていた俺は、自分の熊の毛が背中にまで及んでいたことを思い出した。背中なんて誰にも見せないし、自分でも滅多に意識しないから、忘れていたのだ。そのおかげである程度の高さから落ちても無傷だったりと恩恵はあるのだが、俺としてはあまり思い出したくない類の特徴だった。
 しかしこの不眠症の少年にとって、俺の背中はふわふわの丁度いい何か、らしい。服越しにも伝わる熊毛の感触にうっとりしている彼を起こすのも気が引けて、俺はミィスのなすがままになっていた。
 俺はまくらか、と一人で苦笑いする。
 あれほど忌み嫌っていた自分の身体が、今は少しだけ、誇らしかった。

 風は相変わらず穏やかで、陽の光はどこまでも優しい。遠くでは小鳥たちが啼き、虫の羽音が小さく震えている。
 こうして俺とドラゴンの少年は、贅沢な午睡を心ゆくまで堪能したのだった。
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