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 山で一番大きな杉の天辺に登ると、まるでおもちゃが散らばるような街が一望できた。
 むっと立ち上る熱気と杉の独特の香りが鼻につく。日差しを遮るために手を額に翳して、なぎ目を細めた。
 小さなマッチ箱のような建物が並ぶ盆地は、青々とした夏の山に挟まれ、地平線まで広がっている。街の向こう側には海があるのだが、ここからでは銀色の線が引かれているようにしか見えなかった。
 生温い風が頬を撫でる。陽は高く、中天を過ぎようとしていた。かれこれ3時間ほど街を見張っていたものの、狗凪の視界に入る影は鹿か猿、猪といった動物のものだけだ。
 草食動物たちが木陰を素早く行き来し、大型の獣が堂々と歩きまわる。かつて森の中で繰り広げられていた弱肉強食の構図は、今ではコンクリートの道路や校庭、あるいは建物の中で繰り返され、そこに人間の姿は無い。
 ゆうゆうと駐車場を横切り線路を渡る鹿の親子を目の端で追いながら、狗凪は内心ため息をついた。
 「……今日も駄目か」
 呟いた丁度その時、下のほうで聞き覚えのある声が狗凪を呼んだ。
 「おーい、くなー。成果はどうだ? 」
 のんびりした声は幼なじみのきり寿ひさのものだ。狗凪は口の中で「応、」と呟いて一本杉の頂上から飛び降りた。音も無く着地する。
 「いつもの通りだ。誰も動いている奴はいない。動物ものんびりしたものだよ……人間がいれば、少しは警戒するだろうに 」
 杉の小枝を払いのけながら立ち上がる狗凪に、黒髪の青年、桐寿は肩を落とした。
 「やっぱりか。山の反対側も駄目だってさ。他の奴らは商店街に出かけてる」
 「人影は」
 狗凪が聞き終わる前に、桐寿が首を横に振る。わかってはいたことだが、やはりどこの街にも人間は見当たらないとなると、どことなく底が抜けたような不安な気分になった。
 それは、かつてこの地上を支配していたと言っても差し支えのない人間たちの『絶滅』によってもたらされた、不気味な空虚さだった。
 「人間がいなくなってもうすぐ1年か。こんなことになるなんて思いもよらなかったな」
 桐寿がぽつりと零した言葉は、間近で鳴きだしたアブラゼミの声にかき消されていった。
 
***

 「どうやら結論を出さなきゃいけない時がきたらしい」
 いつにも増して重々しい声でくろが切り出すと、それまでざわめいていた里の妖かしたちはぴたりと黙った。篝火の爆ぜる音だけが洞の中に響く。
 里の妖たちのほとんどが洞に集まり、長である玄亥の言葉を待っていた。猿、狐、狸、カワウソといった獣たちも暗がりに身を寄せあっている。
 金や赤に光る瞳が見つめる中、玄亥はゆっくりと野太い声で続けた。
 「人間たちを見なくなって、今日で1年。去年の八月二十六日以降、俺たちを含むどんな妖かしも、人間を見ていない。そのことについて断言するのを避けてきたが、けじめとして一応宣言しておこうと思ってな」
 小さく息を吐き出して、玄亥はしゃんと背筋を伸ばした。
 

 「人間は、死んだ 」


 告げられた言葉は、まるで妖怪たちの運命を決めるように厳かだった。
 普段はいがみ合う種族の妖かしでさえ、息を詰める。その場にいた誰もが口を閉ざし、長の次の言葉を待った。
 「人間は死んだ。信じられねぇことだが、あれだけいた人間が全部死んじまった。死体も骨も残ってねぇ。生き残った奴を探し続けてはいるが、絶望的だ」
 そんなまさか、あの人間が……どこかにいるんじゃないのか?
 洞のあちこちから妖かし達がひそひそと話し合う。
 やがて一人の妖かしが、しびれを切らしたように手を挙げた。
 「そりゃ、おやっさんの早合点って可能性はないのかい」
 一つ目入道が大きな目を見開き、玄亥に食って掛かる。古くから里に住む一つ目入道は、良くも悪くも長である玄亥に遠慮が無い。玄亥は重々しく頷いた。
 「もしかしたら、って事はもう何度も考えた。動かせるだけのどもを動かして、人が入り込めるところはほとんど探し尽くした。だけどな…… 」
 「痕跡のひとつもなかったってことかい」
 玄亥が憮然として頷くと、再び妖かしたちの話し声は大きくなった。誰もが、まさかそんな、いやしかし、と考えを語り合い、収集がつかない。
 一際大きいガラガラ声で、が喚いた。
 「あの忌々しい人間がいなくなってせいせいしたわ。ここにいる奴らはまだ人間が恋しいみたいだが。腰抜けどもめ、ちょっとは喜んだらどうだ」
 「なんだと! 」
 他の妖かしたちが一斉に野狐を睨みつけた。一触即発の空気が洞に流れる。
 「おとなしく聞いておけば、この野良狐風情が! 」
 「うるさいわ小童共。人間の影に隠れて、女々しく生き延びてきたお前らに、矜持も何もなかろうて」
 野狐に憤慨する者、頷く者、ひそひそと話し合う者たち……。反応はそれぞれだが、皆どこか不安そうに視線を彷徨わせている。そんな中、玄亥がのっそりと立ち上がった。
 「お前ら、言い合いは終わりだ。この山で生きて行きたいのなら、俺の言うことを聞いてもらおうか」
 ドスの効いた声に、さすがの野狐も押し黙った。今にも手がでそうだった妖かし達も、渋々座りなおす。
 「俺としては、人間なんぞいてもいなくても大した問題じゃねぇ。だが他所の里はそう思っていないらしい。あれだけ俺たちを苦しめていた人間が滅んだとなると、タガが外れる奴も出てくるってわけだ。今じゃ、どこの者が攻めてきてもおかしくねぇ」
 長の言葉に、ぎょっとした空気が流れた。争いなど、この数百年無縁のことだったのだ。
 かつて人間や妖怪相手に立ち回ってきた者たちも、今は随分と減ってしまい、他の里との交渉などは専ら長の仕事になっていた。
 「人間はどこにもいなかった。これだけいないとなると、他所の国でも同じことだろう。例え何人か生き残っていたとしても、もうあんな街や建物を作る力は残っているまい……人間に成り代わって国を支配してやろうとする輩にとって、今は好機だ。他の妖怪が邪魔なんだよ。そういう時に、身内同士で争ってても何も始まらねぇんだ」
 「……でもよぉ」
 洞の片隅で、河童が小さく手を挙げた。細い体がブルブル震えている。
 「お、俺たち争いなんて、全然したことないんだぜ?そんなこといきなり言われたって」
 「もちろん、今日明日どうにかなる話じゃねぇさ。だが皮肉な話、人間がいなくなってから情報が混乱してる。山一つ向こうのことだってどうなってるかよくわからねぇ。今日、お前らに集まってもらったのは、この里の現状を知ってもらうためだったんだ」
 玄亥は大きな体躯で洞全体を睨みつけるように見渡した。名が表すとおり、元々は黒いイノシシであった玄亥の迫力に、妖かしたちは黙った。
 「いいか。他所の里に行きてぇなら止めやしねぇ。基本的に好き勝手してもらって結構だ。だがな、ここが里である以上、身内同士で争ったり弱い奴に手を出したりしたら、俺が許さねぇ。ここは、俺の里だ」
 話は以上だ、と玄亥が手を叩くと、妖かしたちはのろのろのその場を離れ始めた。誰もが不満そうに、そして不安そうに話し合いながら洞を出て行く。
 どこからか冷たい隙間風が吹いて、篝火を揺らした。

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