他の者と同じく席を立とうとしていた狗凪は、玄亥に呼び止められ、振り向いた。
 「おい、狗凪。お前ちょっとここに残れ」
 有無を言わさない口調に、狗凪は素直に従う。彼は里の妖かしの中でも一番の下っ端であり、長である玄亥に仕えて間もない若輩者だ。
 特に不満そうでもなく座り直した狗凪に、玄亥は頭をぼりぼりと掻きながら言いにくそうに切り出した。
 「……それでお前、見たか? 」
 「……何を、ですか? 」
 玄亥の曖昧な表現には慣れている。しかし一応確認しておこうと、狗凪は真顔で聞き返した。
 玄亥は先ほどの迫力が嘘のように顔を紅潮させながら、口篭もった。
 「そりゃおめぇ、その、ふみだよ」
 文乃という名前を聞いて、狗凪はすぐに白髮の儚い姿をした女蛇妖を思い出す。彼女はかつてこの山を治めていた山神の娘であり、玄亥の幼なじみでもあった。
 人が消えてからというもの、文乃の姿を見たことはない。今日の集まりも狐達が知らせにいったはずなのだが、文乃を見た記憶はなかった。玄亥は首を傾げた。
 「あいつは昔から気難しいところがあるからなぁ。おい、狗凪。お前ちょっと文乃のところに行って様子を見てこいや」
 「えっ? 」
 てっきり狐に様子を見に行かせるものだと思っていた狗凪は驚いた。
 狗凪と文乃の面識はほとんどない。幼いころ、遠くからちらりと姿を見かけただけだ。
 覚えていたのは、そのどこか憂いを帯びた瞳が印象に残っていたからだった。他の妖かしは口悪く「神経質な女だ」などと噂しあっていたが、狗凪にはどうしても、ただ気難しいだけの女性には見えなかった。
 寂しげな瞳が、どこか自分と似ていたからかもしれない。
 「しかし、俺が行ってもいいんでしょうか? 」
 「何言ってやがる、適任はお前しかいないんだよ。今自由に動き回れる奴の中では、お前が一番信用できるんだ」
 益々驚いて玄亥を見つめる狗凪に、玄亥はにやりと口角を歪めた。イノシシの名残のような鋭い牙が見える。
 「同じことを何度も言わすなよ。お前はもう立派な里の一員だ。だからこんな状況でも信頼できる……悪いが文乃の様子を見てきてくれ」
 狗凪は2,3度瞬きし、頭の中で玄亥の言葉を反芻した。早く行け、と玄亥に部屋を追い出されても尚、狗凪は呆然としていた。
 
*****

 いつの間にか外は暗くなっていた。朧月が里山や街をぼんやりと照らしている以外、目立った明かりは無い。狗凪にとって慣れ親しんだ夜道だった。いくら人間の世界が明るかったとは言え、この里山に明かりが届くことはほとんどなかったし、この山の地形は熟知している。狗凪は労なく山道を進んで行った。
 文乃の館はここから山を二つばかり過ぎたところにある。到着するのは明日の昼頃だろう。そう目星をつけた狗凪は、ゆっくりとした足取りで歩いた。
 星の多い夜だった。月があっても雲間から見える星々は白く、力強く輝いている。林の奥から絶えず聴こえてくる虫の声に耳を澄ませながら、狗凪は玄亥の言葉を思い返していた。
 
 里の一員になりたいと、何度も願った。
 だが、それは無理なのではないかと、狗凪自身諦めていた。
 かつて北の領域を守っていた天狗たちは、烏天狗の一族の支配によって居場所を失った。土地神の加護を受けた烏天狗たちは勢力を伸ばし、多くの天狗たちを追放した。
 中でも最も激しい迫害を受けたのは、ひんの一族である。元々神の使いであった狗賓たちが再び力を持つことを恐れ、烏天狗達は彼らを執拗に追い回した。
 まだ幼い狗賓であった狗凪も、迫害され、遠い地へと逃げ続けた。
 そんな狗凪を救ってくれたのが、玄亥だった。争いの火種になるからと渋る妖かしたちを説き伏せ、狗凪を追ってきた烏天狗たちと交渉して、狗凪は晴れて里で暮らすことを許された。
 それから、狗凪は玄亥の為に働いてきた。ほとんど遊びもせず、私情も挟まず、狗凪は里の雑務をこなしてきた。
 だがそれもこれも、心のどこかで本当の里の一員になりたいと願っていたからだ。
 自分はよそ者。この里には置いてもらっているだけ。できることなら、冷たい鴉共が支配する北の故郷よりも、この山の妖かしとして認めてもらいたい……。
 (お前はもう立派な里の一員だ)
 玄亥の言葉が、狗凪の気持ちを見透かしたように響いている。
 わだかまっていたのは、自分のほうだったのかもしれない。狗凪は嬉しいようなくすぐったいような気持ちで、朧月を仰いだ。

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