その場にいた全員が、一瞬動きを止めた。
閃の言葉が信じられず、狗凪は思わず空を見上げる。星が瞬き始めた空にはうっすら雲がかかっているが、雨が降りそうには見えない。
「……本当か? 」
狗凪が眉根を寄せると、閃は首を横に振った。
「マジだって!! お前ら、俺が雷獣だって知ってるだろ!! 」
雷獣は読んで字の如く、雷の妖かしであり、天候に大きく関係する。落雷に乗って遊ぶ雷獣にとって、天気予報など造作もない。
しかしさすがの閃も、自信が無さそうに頬を掻いた。
「櫓に上がった時からずっと湿った匂いがしてんだよ。どんどん強くなってる」
「それじゃ、本当に雨が……? 」
アレクも空を見上げて手を翳す。
その時、不意に潮風の強い香りが校庭へと流れ込んできた。
櫓に貼られた紅白幕がわずかにはためく。風が出てきているようだ。
「まさか……」
文乃が口元を手で抑え、さっと顔色を変えた。
「確かに今、龍脈が刺激されているとは思いますが……でも……」
文乃は、自分の言葉が信じられないという表情で狗凪を見つめた。
人間の不在により閉ざされた龍脈を、妖かしの手で再び活性化させる──町への移住計画には、文乃の提案が元になっている。だが、提案した本人である文乃ですら、その効果がいつ発揮されるのかわからなかった。
そもそも、この計画が有効なのかどうかすらも疑問だったのだ。結局、『できることが他に無いから』という理由で移住が推し進められたが、龍脈や山神のことなど、ほとんどの妖かしが忘れ去っていた。
この、湿った風が吹くまでは。
浮かれ騒いでいた妖かしたちのあちこちから、ざわめきが起こる。
「おい、この風なんだよ……」
「なんか雨の匂いしねーか? 」
猫又たちが空中の匂いを嗅ぎ、髭を震わせた。
「空は晴れてるんだけどにゃぁ」
陽の落ちた空には、薄い雲と星しか見当たらない。だが予感はますます強くなっていく。
先程までの騒がしさが嘘のように、妖かしたちは黙って空を見つめた。辺りにはただ、お祭りの陽気なBGMが微かに流れている。
再び湿った風が、校庭を吹き抜ける。
その時、地響きを伴う雷鳴が、空に鳴り響いた。
一年以上聞いていなかった、荒々しい音。
「……ほら、俺の予報は当たるだろ? 」
引きつった笑顔で、閃が呟く。その言葉が終わるか終わらないかの内に、狗凪の耳に水滴が一滴、落ちた。
それが、雨の合図だった。
数滴の雨の後、まさしくバケツを引っくり返したような豪雨が始まった。唖然と立ち尽くす妖かしたちを容赦なく濡らし、凄まじい勢いで流れていく。
校庭の側を通る用水路が、瞬く間に溢れかえった。
ひび割れていた校庭は水浸しになり、辺りは一寸先も見えないほどの暗さだ。
その暗闇の中を、雷鳴がひっきりなしに轟き駆ける。
妖かしたちは呆けたように空を見上げていた。
「……雨だ」
呟きのような声は、妖かしたちの間に次々と伝播していき、波のように広がっていく。声は、雨と雷の音にも負けず、校庭に響き渡った。
「雨だ……! 」
「おい、本当に雨が降ってるぞ!!! 」
「バカ、おめぇ、そりゃ見ればわかるだろ!! 」
「はははは!! 久々の雨だぞ!! 」
河童の一族はいてもたってもいられず、濁流渦巻く川に身を躍らせた。雨降り小僧が、面目躍如とばかりに提灯を振りかざす。どれほど祈っても降らなかった雨は、天候に関係する妖怪の矜持を取り戻し始めていた。
だが、大半の妖かしは、久しぶりの雨をただ喜んだ。
「……本当に降りやがった」
凄まじい豪雨の中、玄亥が呆然と呟く。
今や雷は数秒毎に落ち続け、町のあちこちで小さな火事を起こしている。火事はすぐに土砂降りによってかき消され、広がることはなかった。
雷光によって、さきほどの暗さが嘘のように明るい。
その断続的な閃光の中、誰かが空を指差して叫んだ。
「おい、見ろ!! 何か動いてるぞ!! 」
浮かれはしゃいでいた妖かしたちが動きを止め、再び空を見上げる。数匹の妖かしが、釣られて目を細めた。
豪雨と雷で視界が悪い中、『ソレ』は確かに動いていた。
鱗状に広がった雨雲の間を、泳ぐように動いている。
「なんだ、あれ」
狗凪は落雷と暗闇でちかちかする目をこすり、雨雲を見た。
悠然と空を横切る『ソレ』は、初めて見たにも関わらず、不思議と恐ろしい感じはしない。巨体は雷鳴の度に大きくうねり、ゆっくりと町の上空を通っていく。
その時、不意に『ソレ』が雨雲の間から顔を覗かせた。
──金色に輝く、龍の顔を。
悲鳴にも似た歓喜の声が上がった。
「山神様だ!! 」
「龍神様……!!! 」
落雷に負けないほどの声が、校庭を揺らす。
金色の龍は巨体をくねらせ、まるで雨雲を縫うように泳いでいく。雷は龍に追随し、その姿を暗闇に浮かび上がらせた。
「……お父様!! 」
堪えきれなくなったように、文乃が叫んだ。
「お父様!! お父様ああぁあ……!! 」
後は言葉にならず、その場に突っ伏しておうおうと泣き始める。それは長い間迷子になっていた子供のように、安堵と喜びの入り混じった涙だった。
山神はゆっくりと町を横切っていく。
「……戻ってきたんだ」
遠ざかりつつある山神の姿を見つめながら、狗凪は湧き上がる笑いを堪えきれなかった。狗凪だけではない。その場にいる妖かし全てが、小さく笑っていた。
山神が往ってしまうと、空は嘘のように晴れた。
先程までの雷も雨雲も消え、後には砂銀を散りばめたような夜空が広がっている。妖かしたちは互いに顔を見合わせ、そしてついに笑い始めた。
「やったぞ!! 本当にやりやがった!! 」
箍が外れたような大笑いに交じって、山神様万歳!! 文乃様ばんざい!! と叫び声が上がった。
あらゆるものが打ち鳴らされ、町全体が揺らぐほどの喜びが響き渡る。
座り込んで泣き続けている文乃に、灰良が抱きついた。
「よかったねぇ、文乃! 」
文乃は声を上げて泣きながら頷く。
海の方角から、応えるように遠雷が一度、轟いた。
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