「兎に角だ。悪いが当面お前らに動いてもらうしかない……頼んだぞ」
 玄亥の真剣な表情に、狗凪は思わず笑みを引っ込める。同時に、わずかな良心の痛みを感じて慄いた。
 ──俺はそんなに出来の良い奴じゃありませんよ。
 喉元まで出かかった言葉を飲み込む。
 狗凪は奔放な他の妖怪と違い、従順に里に尽くしてきたが、一方でそんな自分に怯えていた。誰かに期待されればされるほど、その恐怖は膨れ上がっていく。
 もしも失敗して誰かを失望させるようなことになれば、二度と仲間として迎え入れてはもらえないだろう。幼い頃、身ひとつで故郷を追われた時のように、再び何もかも失ってしまうだろう。
 だが、と狗凪は思う。
 自分が他の妖かしとどれほど違うというのか。気ままに野山を駆け、木を渡り歩き、好きなときに寝て遊びたい。俺も他の奴のように、自由でありたい……。
 理性と感情に挟まれたまま、狗凪は引き攣った表情を浮かべて頷いた。

 席を立ち、襖を閉める寸前、玄亥が小さく呟いた。
 「……獣臭ぇな」
 一瞬、狗凪の背中に冷たい汗が伝う。何事も無かったようにその場を立ち去るまで、顔を上げることができなかった。



********************



 ところどころ草野生い茂ったアスファルトの上で、陽炎が揺れている。太陽はは何の容赦も無く、かつて街だった場所をじりじりと焦がしていた。
 「さすがにあっつぃわ……いくらオレでもあっつぃわ……」
 まるでゾンビのような足取りで閃がボヤく。隣にいる狗凪は対照的に涼しい顔でため息をついた。
 「そうか? これからもっと暑くなると思うし、今からバテてたら持たないぞ」
 「えー……いや、もうコレ以上は暑くならないっしょ……人間の天気予報じゃあるまいし、俺たちに天気はわからないっしょ……」
 「いや、なんとなく雲の動きが酷暑のそれだから」
 「なんだよそれ……八月ももう終わりだろ……」
 長い坂道を下りながら、閃はうんざりした声をあげた。
 閃はらいじゅうである。妖怪の中でも力が強く、自在に雷を操る閃は他の妖かしから恐れられていた。長との衝突もしょっちゅうで、彼のことを厄介者だと言い切る者もいるぐらいだ。
 そんな閃が、よそ者である桐寿と狗凪の二人とつるむようになったのは、ある意味自然なことだったのかもしれない。三人はいつしか行動を共にするようになっていた。
 「っつか、桐寿はどこ行ってんだ? 一緒に来るんじゃなかったのかよ」
 紺色のタンクトップを来て、白いシャツを頭にのせている閃の姿は、そこら辺を行く高校生にしか見えない。耳と尻尾を出したままの狗凪はいつものように着古した修験者衣装で歩いていた。
 「さぁ。この暑さだから、一足先に海にでも行ってるんじゃないか? 」
 狗凪の目前には人間の街があり、その更に向こう、灰色のコンクリートの先に、青く輝く海が広がっていた。かつては多くの人々で賑わっていた浜辺も港も、今では見る影も無い。
 だが今の閃には、人が消失したことなど二の次らしい。
 猫のように瞳を輝かせ、『海』という言葉の甘美さにすっかり魅せられていた。
 「なんだ、桐寿もたまにはいいこと思いつくじゃねぇか!! 海か、そういや最近川ばっかりで全然行ってなかったわ。たまにはスイカ割りでもすっか! 」
 「あ、いや、まだあいつが浜にいるって決まったわけじゃ……」
 狗凪がそう言った時には既に、閃が走りだしているところだった。
 そもそも人がいなくなったこの街に、スイカという果実があるのかすらわからない。しかし一度走りだした閃が、呼んだところで止まるとは到底思えなかった。彼は雷獣。足も気も、里で一番早い妖かしとして有名なのだ。
 
 狗凪はゆっくりとした足取りで商店街を突き抜け、浜へ続く道へと出る。
 この辺りは潮風の影響が比較的少なく、残っているものも多かった。草木は容赦なく建物を侵食し、動物たちが自由に出歩くのを除けば、街の中心はかつての面影を強く残していた。
 郵便局を通り過ぎ、宿泊施設の一角を抜けると、そこには海が広がっていた。
 防波堤の向こう側で、海面が光を反射させてきらきらと輝いている。砂浜の白さと、むせ返るように熱い風が目眩を誘う。狗凪は目を細めて、地平線を見つめた。
 「おーい! くなー!こっちこっちー! 」
 浜を見ると、既にびしょ濡れの桐寿が手を振っていた。どうやら本当に海にいたらしい。
 「閃はスイカ探しに行ったよ。一応止めたんだけどさ」
 裾についた砂を払いながら桐寿が言う。白いTシャツにジャージのズボンという出で立ちの桐寿も、まず妖怪とは思われない見た目をしていた。どこからどう見ても十八歳くらいの少年だ。
 「でもスイカなんてどこにあるんだろ。スーパーはもうやってないし……」
 「いや、スイカ畑にあるんじゃないか? 運が良ければ去年のスイカから芽が出てるかもしれない」
 「あ、そっか」
 見た目だけではなく、考え方までも人間に染まっている桐寿は、どうやら食材の産地を忘れたらしい。人間が滅びていなければ、魚は切り身のまま海を泳いでいると信じていたかもしれない。狗凪は脱力して、防波堤に腰掛けた。
 「俺さ、人間の高校に紛れ込んでた時、あそこの海の家でアルバイトしてたんだ。結構いい稼ぎになってたなぁ。その分忙しかったけど」
 桐寿が指差した先に、ガレージのような建物が見えた。色あせた布に赤文字で『氷』と書かれたものが潮風に揺れている。
 「何するところだったんだ? 」
 「何をするって、まぁただの休憩所だよ。食べ物食べたり。そっか、くなーは山にずっといたから知らないのか」
 つい先程までスイカ畑の存在を忘れていた桐寿は、自分のことを盛大に棚に上げて笑った。どっちが物知らずだ、と狗凪が鼻を鳴らす。
 二人はなんとなく海の家に歩き出していた。
 「大体、その呼び方はいい加減止めろって」
 「え? いいじゃん別に。くなぎだからくなー。わかりやすいだろ? くなーも俺のこと、きりちゃんとか呼んでくれたっていいんだぜ! 」
 「ちゃん付けは辛い」
 あまりにも真顔できっぱりと言い切った狗凪に、桐寿は目に見えてがっかりした。そんなぁ、とぼやく桐寿を無視して、狗凪は海の家の前に立った。


 
 海の家にはシャッターが降りていた。潮風に曝され、ところどころ錆びてはいるものの、多少の力ではびくともしなさそうだ。周囲にはかつての客の遺したのであろうゴミが散乱していた。
 シャッターに張り付くようにして、古い新聞紙が捨てられている。狗凪は新聞紙を拾い上げ、目の前に広げた。

 『謎の消失事件、細菌が原因? 』
 『全世界多発 シェルターでも確認』
 『メキシコ壊滅』

 悪い冗談のような文句が、所狭しと並んでいた。実際新聞紙上では狭かったのか、広告のスペースやテレビ欄の一部まで削られ、その大多数が記事に当てられている。
 だが、世界に起こっている現状をどれほど文字で伝えようと、受け取る側の人間の許容範囲を越えていてはどうにもならない。あまりにも多くの出来事が、一斉に起こっていた。事故、事件、そして人間の消失。
 「未だに信じられないよなぁ」
 狗凪の広げた新聞紙を覗き込んで、桐寿が呑気な声を上げた。
 「毎日一つ、大都市が消えていったなんて、俺たちだって驚いたし。あの頃は皆大パニックだったよな」
 桐寿の言葉に狗凪も頷く。
 ちょうど一年前、人間たちの世界は何一つ変わったことのない、悪く言えば平凡そのものの世界だった。その平凡さは妖かし達にとっても同様で、人間を憎みつつも危うい均衡を保っていた。
 そんな山奥でひっそりと暮らす妖かしたちの耳に、『人間たちが都市単位で次々と消失している』という噂が届き始めた頃には、この日本という島国でも消失は起こり始めていた。
 はじめは妖かしたちも、人間同様デマやオカルトゴシップの類だろうと笑っていた。しかしある日、一匹の狐が半狂乱になりながら里へと駆け込んできた。
 『人間が消えた! 俺の前から綺麗さっぱり消えちまった!! 』
 普段から妖怪の手足として活動している狐が、人間の消失だけでこれほど取り乱すのも不思議な話だった。神かくしや人を化かすことなど朝飯前の狐が、である。さすがの玄亥も様子を怪しみ、人間の街へと偵察を送り込んだ。
 そこでは、信じられない光景が広がっていた。
 あれほど騒がしかった街から、物音一つ聞こえない。夜にはいくつかの明かりがつき、部屋に人間がいることがわかったが、それも数日経つと消えるか、つきっぱなしになっていた。街は不気味なほど静まり返り、徐々に人の気配が消えていった。
 丁度その頃、狗凪も街へと行ったことがある。既に道路からは行き交う車が消え、信号機だけが虚しく点滅を繰り返していた。人間の世界にそれほど詳しいわけではなかったが、あれほど騒がしかった街に人が見当たらないことが信じられなかった。
 まだ誰か残っているのかもしれない……。そう考えていた狗凪の前に、ふらふらと歩く人影が見えた。
 男だ。
 灰色のトレーナーを着た、三十代くらいの若い男性が、生気の無い顔をして道を横切ろうとしている。どこかにいくつもりなのか、あてど無く歩いているだけなのか判別がつかなかったが、その姿はまるで魂を抜かれた者のようだった。
 狗凪は、自分の姿も忘れて思わず声をかけた。
 「おい! 何してるんだ! 」
 男は足を止め、狗凪を見た。その目が驚きで見開かれる。
 狗凪は、そこでようやく自分が妖怪の姿をしていたことに気づき、狼狽した。
 しかし男が声を上げることはなかった。男は目を見開いたまま、狗凪を見つめたまま……消え始めたのだ。
 まず、手の先が『消えた』。男のトレーナーの袖が、だらりとぶら下がる。ついで肩、腋、首の側面が、まるで手品のように綺麗に消えていった。
 やがて男の背丈が縮み始めた、というより足首が消え始めていた。
 男と狗凪は、呆然と互いを見つめ合う他なかった。ついに男は一言も発すること無く、肉体を消失させてしまった。着ていたトレーナーだけを残して。

 今なら最初に報告した狐の驚きようもわかる、と狗凪は思う。人外のわざに接している物の怪たちだからこそ、あれほどまでに極自然に消えてしまうことに慣れていない。そもそも科学や物理といったものとは正反対の存在なのだ。
 これら人間の消失が、妖術や魔術の類でないこともわかっていた。妖怪よりも人間のほうが冷静に原因を追求した。皮肉なことに、原因が判明した時期と、人間が絶滅した時期はほとんど同じだった。
 狗凪は新聞の隅に書かれた見出しを黙読し、眉根を寄せた。

 『新種ウィルス? ロシアの研究所が発表』
 『小隕石が原因か 特定まで至らず』
 『感染経路不明 止まらぬ犠牲者』

 そこには、シベリア海付近に落ちた隕石と、それに付着していたウィルスの研究記事が書かれていた。
 最初、ウィルスは特に重要視されていなかった。新種のウィルスなど、研究機関としては珍しくもないらしい。
 名も持たない新種ウィルスが脚光を浴びたのは、研究者数人が衣服のみを残して跡形もなく消え去ったあとだった。だが、関連性が指摘されたのはもっと後になってからだ。それまでに、研究者とその家族がダース単位で消えていった。
 それは、あまりにも早過ぎる出来事だった。人類史上これほどまで速やかに、生物を死に至らしめるウィルスなど存在しなかった。その後も犠牲者はほとんどねずみ算式に増えていき、最早誰も止めることができなくなっていた。
 もちろん各国が手をこまねいていたわけではない。この非常事態に、利害抜きに団結しようと言う動きもあった。しかし、そう考えたときには既に何もかも遅かった。ウィルスの速度は、人間同士の結びつきよりもずっと早く進んでいた。
 研究所も、通信も、なにもかも閉ざされた後、訪れたのは恐ろしく静かな滅亡だった。

 「今思い出してもぞっとするわ」
 
 唐突な声に、狗凪と桐寿は振り返った。
 どこから見つけてきたのか、閃がきゅうりを噛りながら、広げた新聞紙を覗き込んでいた。
 「あん時はさすがのオレも人間に同情したね。あいつら、お勉強が得意だから今までのし上がってきたようなモンだったけど、そのお勉強が全然役にたたなかったからなぁ」
 「言われて見ればそうだよな。俺らも人間の術とかまじないに散々苦しめられたけど、これは研究させる暇なんてなかったしな」
 桐寿が頷く。その言葉にはどこか畏怖と尊敬が入り混じった響きがあった。
 「でもそのおかげで、今のオレたちが苦労してるんだけどな。あーあ、駄菓子食いてぇ。ラムネ飲みてぇ」
 恐ろしく欲望に忠実な独り言を言って、閃がきゅうりを齧る。桐寿が情けない表情で項垂れた。
 「言うなよ……俺まで飲みたくなってくるじゃん」
 妖怪としての矜持を一切持ちあわせていないであろう閃と桐寿が、同時にため息をつく。狗凪は、二人とは別の意味でため息をついた。
 妖怪をここまで『人工甘味料漬け』にする人類とは、やはり恐ろしい存在だったのだ。例え未知のウィルスに絶滅させられたとしても。

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