えぇ、あの日のことは今でも覚えています。あの子が出て行った時のことは。

 私はその日、疲れ切って家へ帰りつきました。がむしゃらに働けば働くほど、お金が貰えた時代ですからね。でも本当は家に帰りたくなかった。来る日も来る日も夫婦喧嘩でしたから。
 その日もそうなる予定でした。私が家に帰りつき、玄関の扉に手をかけたところで──妻の泣き声が聞こえてきました。それでもう、私はうんざりしてしまったんです。
 扉を開けると、予想より遥かに酷い光景が広がっていました。妻のアニーは泣きながら割れた皿を片付け、奥の部屋では生まれたばかりの娘がむずがっていました。食器棚は倒れ、テーブルクロスが破れて……妻は、まるで何かに耐えているように唇をかみしめ、私の目を見ないまま一心不乱に箒を動かしていました。
 またか、と思いました。
 いつもそうなのです。私がいない間、家はどんどん破壊されていきました。皿だけじゃない。机も、戸棚も、床や壁も……あの子にとってそれらは脆すぎた。そう。脆すぎたんですよ。
 その日も妻にそう伝えようとしました。あの子のせいじゃない。あの子はただ少し、他の子と違うだけなのだと。しかし顔を上げた妻の表情を見て、私は何も言えなくなってしまいました。
 「もう限界よ」
 妻は私にそう言ったきり、静かに泣き始めました。

 私はスヴェンを見つけました。階段の手すりから足を出してぶらぶらさせていたのを覚えています。どこか不貞腐れたような顔でね。それで私は疲れ切った自分に鞭打って、スヴェンを呼びつけたんです。
 「またか、スヴェン。ママを悲しませちゃだめだって言っただろう?」
 あの子は俯いたまま、じっと自分の手を見つめていました。私も……いつも、スヴェンの手を見ていました。
 熊のような獣の手。それがあの子にとっての、いや、私たちにとっての呪いでした。スヴェンは、この辺りで昔からよく生まれるという忌み子の腕を持って産まれてきた子供だったんです。
 「出て行く」
 あの子はそう言いました。五歳の子供が、家を出て行くと言ったんです……私は、笑い飛ばす気でした。何をバカなことを言っているんだと。いいから部屋に行ってじっとしてなさいと。でも、声が出なくて……。
 玄関から出て行くあの子を、私も妻も、ただ黙って見送っていました。わかっています。親として最低の態度だった。それなのに、どうしても名前を呼べなかった。
 あの子はどんどん歩いて行きました。外はそろそろ暗くなる頃だったのに、私たちは阿呆のように並んで、あの子の背中を見ているだけでした。えぇ、本物の阿呆でした。

 夕日の中、遠ざかったスヴェンに人影が近づいていきました。人攫いだと思いました。あの頃は町に子供を攫う奴がいましたから。私はさすがにはっとして追いかけようと思いましたが、その人影とスヴェンが何か話している姿を見て、もしかしたら知り合いかもしれないと思いなおしました。近所の誰かと話しているのかと思ったんです。
 スヴェンとその人は、二人並んで歩いて行きました。ごく普通の態度で。走るでも戻ってくるでもなく、あの子は見知らぬ大人と一緒に行ってしまったんです。私は面食らって、その場に立ち尽くしていました。やっぱり声はでませんでしたね。本当に間抜けでしたよ、今思い出しても。
 それから……?それから、何もありません。私も妻も、ただそこにいただけです。娘の泣き声を聞きながら、ただスヴェンの背中を見送っていました。あの子は一度も振り返らなかった。それきり、会えないままです。

 あなたはスヴェンがどうなったか知っているんでしょう?教えてください。今更そんなこと気にするなんて、随分虫がいいとお思いでしょうが……そうです、私はあの子を裏切った。見捨てたんです。あれからもう八年も経つなんて未だに信じられない。私の中では、赤い夕陽の中、一度だけ振り返った幼いあの子の顔のまま。もう一度だけ、あの子に会いたいんです。
 教えてください。あの子は一体どうなったんですか?あの子は今、どこにいるんです?

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