先ほどいたシャム猫が部屋に入ってきてソファに飛び乗る。あくびをして眠りに入る猫を一撫でして、ベラルダが続けた。
 「……子供たちは戻ってきていない。ローガンはあちこち手を尽くして子供たちの行方を追っていたのだけど、結局どんな形跡もみあたらなかった。ローガンもフランク先生も、子供たちは戻ってこないと信じていたわ。その根拠が──この手紙よ」
 ベラルダがファイルを開く。しわくちゃになった紙に大きく描かれていたのは、子供たちと先生の姿だ。
 『せんせい さようなら』──子供たちは別れの言葉をどんな気持ちで綴ったのだろう。もう会えないという悲しみなのか、それともすぐに戻って来るという楽観的な気持ちだったのだろうか?
 それがどんなものであれ、子供たちがこの世界にいないことだけは事実だ。そしてもう一つ、変えようのない事実を、ミシェルは知っていた。

 「じゃあ、子供たちは知らないままなんですね……フランク先生が亡くなっていることを・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
  ***

 (新聞『ルマ・ポスト 一×二四年 五月一二日』一面記事より抜粋)
 クダハ警察署のレイナルド・トログ警察署長は、四月に起きたデイヴィス共連議員脅迫事件への関与が疑われるとして、コンラッド・レヴィル容疑者(32)を逮捕した。
 コンラッド容疑者は国政に不満を持つ他組織と頻繁に連絡を取り合っており、少なくともその他三件の事件に関わっていると見られている。
 レイナルド署長は会見で、「一般市民からの善意の通報がコンラッド容疑者の逮捕に繋がったことは多いに意味がある」として、市民に対し犯罪行為の通報を広く呼び掛けた。
 尚、コンラッド容疑者は一貫して容疑を否認している。


 (ラジオ『デイズ・デイズ 一×二五年 十二月一日』正午のニュース)
 こんにちは。十二時になりました。お昼のニュースです。
 昨夜未明、カーディン橋近くの路上で男性が倒れているのが見つかり、病院に搬送されましたが、今朝方死亡が確認されました。
 男性の名前はフランク・オルトアさん35歳。死因は何者かに刺されたことによる失血性ショック死とのことです。オルトアさんは以前から個人的な慈善事業や平和活動に従事していて、警察はなんらかの事件に巻き込まれた可能性があるとみて捜査を進めています。

****

 シャム猫が小さな寝言のように一声鳴き、もぞもぞと姿勢を変える。暖炉の中では炎が燻っているが、それも必要のないほど室内に暖かい陽光が射していた。
 ベラルダとミシェルはしばらく黙って小さな手書きのメモを眺めた。最後の筆跡は乱れていて、ローガンの心境を窺い知ることができる。メモの隅には〝何かの間違いだ〟と走り書きがされていた。
 
 「あの人はね、証明したかったのよ。フランク先生に」

 長い沈黙を破ったベラルダが再びファイルを捲ると、子供たちの資料が出てきた。ローガンが集めたと思わしきインタビューの数々が、子供たちの名前の順番通りに並べられている。
 「……ねぇ、ミシェル。一緒に暮らしていた人や、今まで傍にいた人がいなくなる奇妙な気持ちがわかるかしら。その人の思い出も、持っていた物も、少しずつ消えて行ってしまう感覚がわかるかしら……。正直に言って私にはわからない。そんな悲しいことは起こらなかったから」

 持ち物や痕跡が無くなってしまえば、人の存在を示すものは記憶しかなくなり、その記憶も、時間の経過とともに薄れていずれ忘れ去られていく。そうやって人々は歴史を紡いできたのだと言えるのかもしれないが、今、まさに誰かを失った人間に、その言葉がどれほど響くというのか。
 だからローガンはこれほどの資料を集めたのだ。記憶を風化させない為ではなく、『ここに子供たちがいた』という証明をしたかったのだと、ミシェルはようやく理解した。
 あの場所に、灰の館に、確かに子供たちはいたのだと。

 「でも、それは……」ミシェルは言い淀んで視線を落とす。
 その証明はつまり、『子供たちはもう、どこにもいない』と宣言しているようなものではないか。ローガンもフランクも、子供たちは戻ってこないと考えていた。だがミシェルにはどうしてもそのことが信じられないでいた。
 「どこかで、フランク先生は願っていたんじゃないですか。子供たちがいつかこちらの世界に戻ってくると」
 だからローガンの傍から離れ、まったく違う道を歩もうとしていたのではないか。ミシェルの言葉を肯定するようにベラルダはゆっくり頷いた。
 「私もそう思うわ。そう願っている。フランク先生は心の底から子供たちの帰還を信じていた。でも……『信じ続けられる』ほど強い人じゃなかった」

 心のどこかでわかってしまったのかもしれない。
 もう二度と会えない、目の前にいない、いることを証明できない人たちのことを、それでもどこかに存在すると信じることはできる。だが一点の曇りもなく、「彼らは生きている」と言い切れない瞬間があったのかもしれない。
 生存を願うにはあまりにも多くのものを失い、長い月日が経ってしまった家族がいたのだから。

 「それでも」とミシェルは言葉を重ねる。
 「私は資料を読んで思ったんです。フランク先生が教授から離れた後、慈善活動にのめり込んでいったのは、子供たちが帰ってきた時に少しでも平和な世界を贈りたかったんじゃないかと……でも彼は、その平和な世界に自分がいることが許せなかったのかもしれません」
 「どうしてそう思うのかしら?」
 「フランク先生の行った慈善活動は名ばかりで、実態は危険な告発ばかりだったからです。それこそ、犯罪組織から報復されても仕方が無いような」
 フランクの足取りを追った詳細な記録は、彼の意図まで露わにする。かつて前線をさ迷い失敗し、アルカディア計画が頓挫した後もまた同じような危険に身を晒していた。
 そして今度こそ、彼の命運は尽きたのだ。
 「彼は最期まで、生き方を変えられなかったんですね」
 そう言ってミシェルが手のひらに力を込めると、ベラルダは微笑みかけた。
 「そうね。フランク先生は不器用な人だった。それを言うならローガンも同じなのだけれど。色々なことを真っ直ぐに受け取りすぎてしまったのよ。でも……」
 言葉を区切ったベラルダは少し考えてから、ファイルをミシェルの方へと押しやった。
 「彼らは最後の最後まで、子供たちの為にやるべき事をやろうとしていたわ。それだけは確か。ねぇミシェル、やっぱりこのファイルはあなたに持っていて貰いたいの。ローガンがそう言ったのよ。私も同じ気持ちだわ」
 もしも要らなくなったら捨てちゃってもいいから、と笑いながら言うベラルダに、ミシェルは慌てて首を横に振る。もうこのファイルがただの紙束には思えない。
 「そんな、気軽に扱えませんよ。機密扱いの書類だって入ってるんですから」
 「そんなもの、今までローガン個人が所有してた位ですもの。今更誰が持っていても問題になりませんよ。それにもう、あの戦争自体が過去のものになりつつあるの。ナトゥールの研究所も、戦争に纏わる後ろ暗い話も、皆忘れ始めているでしょう?」
 だからもういいのよ、とどこか寂しそうに目を伏せるベラルダを前にして、ミシェルは何も言えなくなる。しばらくためらってから、ずっしりと重いそのファイルを再び抱えた。
 「わかりました。これは責任をもってお預かりします」
 「ありがとうミシェル。あなたがそう言ってくれて嬉しいわ」

 どこかほっとした表情を浮かべたベラルダが、それ以降ファイルについての話題を口にすることはなかった。打って変わって、今年の冬の寒さや思い出話に花が咲く。
 暖炉の火が少しずつ小さくなるのも構わず語り合う二人を、シャム猫が夢現で眺めていた。
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