玄関のポーチに立つと、どこか暖かい風が吹いていることに気づいた。雲は空を覆っていたが、陽光が透けて明るく銀色に輝いている。
「お邪魔しました。先生、お元気でいてください」
「もちろん。孫もよく面倒を見に来てくれるのよ。だから大丈夫」
立ち去りかけたミシェルがふと足を止め、振り返る。
「……私、やっぱり不思議なんです。どうしてローガン教授は私にこのファイルを預けたんですか?私なんかより、例えばお子さんやお孫さんにこれを渡した方がよかったんじゃ……」
ベラルダは一瞬目を伏せ、それから何か決心したかのように顔を上げた。
「私の口から言うのも変な話なのだけれど。今から話すことを聞いても、決して誰も責めないと約束してくれる?自分自身も含めてよ」
「責める、ですか?はぁ……」
話が見えないミシェルは曖昧に返事をする。対照的に、ベラルダはゆっくりと言葉を選びながら話始めた。
「あなたのお父さんのヨアキムは、ローガンの部下だったわよね。だから、ヨアキムが『不慮の事故』で倒れて、亡くなってからも、ローガンはあなた達家族を支援してきた……」
「えぇ、そうです。私を大学に推薦して下さって、職が決まらない中、秘書にまでして頂いて。本当に感謝しています」
部下に怪我をさせてしまったことへの罪滅ぼしなのか、ローガンはミシェルの家族をことのほか厚く支援し続けた。それで路頭に迷うことなく生きてこれたのだと伝えると、ベラルダはますます暗い表情になった。
「……何故ヨアキムが重傷を負い、植物人間になってしまったのか……あなたのお父さんはね、コンラッドが率いる組織に捕まって、拷問の末にトリス邸の場所と子供たちの情報を教えてしまったのよ」
随分と長い間、ミシェルはぽかんと口を開けたままその場に立ったままだった。
「え?」
ようやく出てきた声があまりにも間抜けに聞こえて、いっそのこと笑い出したいくらいだ。だがベラルダが痛ましそうに眼を逸らすと、ようやくミシェルにも実感が湧いてきた。
「待ってください。それじゃ、私の父が……フランク先生や子供たちを……?」
「許してあげて頂戴、ミシェル。誰も悪くないのよ。あなたのお父さんは家族を守る為に、仕方なく答えたことなの」
頭の中でぐるぐると過去の映像が切り替わっていく。ある日突然父親が事故で倒れたと聞かされた日のこと。母と二人きりになってしまった日のこと。幼かった自分に、ローガンが優しく話しかけてくれた時のこと……。
「それは、つまり」精一杯自分を保ちながら、乾いた口を動かす。「私と母が脅迫の材料にされていたということですか。じゃあ、フランク先生や子供たちを危険な目に合わせたのは……」
「誰も責めないで、と言ったはずよ」
ベラルダはすぐに口調をやわらげた。
「責められるべきはローガンと私なの。本当はこのファイルを手渡すときに全て伝えるはずだった。なのに私もローガンも、真実を告げるのが怖かった。無かったことにしてしまおうとも考えた。でも……あなたには全てを知って欲しいと思ったのよ。あなたにだけは」
ミシェルはまじまじと年老いたかつての教師を見た。覚えているのは、凛として教壇に立っていた頃の姿だ。この老女がどれほどの想いを抱えて今まで生きてきたのか見当もつかない。
言葉を失い呆然とするミシェルに、ベラルダはごめんなさいと消え入りそうな声で告げた。
「勝手なことを言ってるのはわかっているわ。もしもあなたが何も聞かなければ、黙っていようとすら思っていた。卑怯でしょう?」
恐らくローガンは、何度もその件について切り出そうとしていたに違いない。思い返せば時々思いつめたような表情をすることがあった。しかし彼は何も語ることなく逝ってしまった。
「そうは思いません。父の件は確かに驚きましたが、ベラルダ先生はずっとおひとりで背負ってこられたんですから」
「……やっぱりあなたに話してよかったわ」
ベラルダの瞳に薄っすらと輝く涙を見つけて、ミシェルは首を横に振る。
「私の方こそ、父が倒れた本当の理由が聞けて良かったと思います。それに、私はフランク先生と全くの無関係というわけではなかったんですね」
父が組織を裏切った結果、彼と子供たちを苦境へ追いやってしまったと考えると、あまり良い関係とは言えないのかもしれない。それでも不思議とファイルを置いて帰るという選択肢は思い浮かばなかった。
「また、近いうちに必ずお邪魔します。教えてもらいたいことがたくさんあるんです。ローガン教授のことも、父のことも、戦争のことも」
何度も頷くと、ベラルダはミシェルの手を取った。
「えぇ、きっとそうしましょう。ミシェル、私たちは語らなければだめなのよ。もっともっと、たくさんのことを……」
****
戦後の混乱を乗り越えて、急速な経済発展を遂げたこの国は、その平和さと引き換えにかつての悲劇を忘れつつある。それは戦争の記憶がほとんど無いミシェルにとっても同じことだ。
進んでいく。
社会は、世界は、色々なものを零しながら、前へ前へと進み続けていく。
過去を忘れながら当たり前の日常を過ごすことは、ある意味で素晴らしいのかもしれない。だからこそ、こうやって平穏を享受できているのだから。
だけど。
「……灰の館、か」
住宅地のなだらかな坂の道を下りながら、ミシェルが独り言ちる。炎の後に残る灰のように、あらゆるものから取り残された子供たちと1人の大人はしかし、その痕跡を散りばめながら確かに存在していた。
忘れることはできても、最初から無かったことになどできるわけがない。喪失はただの喪失ではないからだ。失われた〝何か〟が構築したもので、この世界はできている。
──無かったことになんてならない。だから、何も置き去りになんてしない。
今は胸に抱いたこの重さの意味を知らないかもしれない。だけどもしもチャンスがあるのなら、その時はこの話を誰かに聞かせよう。
深い森の中でひと時を過ごした、先生と子供たちの物語を。
ミシェルはふ、と口の端を綻ばせる。
そうして楽しげな声が未だに響く公園のほうへ、歩み続けた。
END
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