1.

 飛び起きると、静寂が部屋を包み込んでいた。心音だけがバクバクと耳に響く。
 暗闇の中、近衛はベッドから体を起こし、深いため息をついた。
 ──何度あの悪夢を見ればいいのだろう。
 寝汗が滲むシャツが冷えていく。ベッドの端に腰掛けて、近衛はスマートフォンを手に取った。
 少し悩んでから、馴染みの番号にかける。
 恐らく寝ているだろうと予想したが、相手は数コールも鳴らない内に電話を取った。

 『もしもーし! おにーちゃん?』
 
 「由岐、起きていたのか?」
 驚く近衛に、妹の由岐はあっけらかんと笑って見せる。その笑い声は数年前の明るさをそのまま保っていた。
 『お兄ちゃんこそ! 今何時だと思ってるの? 私も起きたとき電話しようかなーって思ってたんだけど、寝てると思って遠慮してたんだよ!?』
責めるような口調に、口許が思わず緩む。
 「それは悪かった。お前が起きているとは思わなくて」
 『……ねぇ、本当にそれだけ? こんな時間に電話するなんて、何かあったの?』
 一転して不安そうな由岐に、近衛は言葉を詰まらせた。
 あの日のことを夢に見た、とは言えなかった。
 あれは今に続く、由岐と、そして自分を縛り続ける悪夢だ。
 起きている彼女に、わざわざ思い出させたくない。
 『……お兄ちゃん?』
 訝しむ由岐の声に、近衛は頭を横に振った。
 「特に用事は無い。しいて言うなら、お前の声が聞きたくなった」
 『……妹の私が言うのも変だけど、お兄ちゃんはもう少し、人と言葉を選んだほうがいいと思うよ……。知らない人が聞いたら口説き文句にしか聞こえないからね……?』
 今度は何故か怒っているようだ。近衛は慌てて付け足した。
 「それと、いつもの雑誌が手に入らなかった。明日には用意出来ると思うが」
 あ、それね、と由岐が明るい口調で遮る。
 『ごめん、もっと早くに言えば良かったんだけど、もう先生が雑誌はいらないって。こっちで買ってくれるみたい。必要経費だとかなんとか』
 「……そうなのか?」
 『うん。夏子先生、詳しいことは教えてくれなかったんだけど、なんか雑誌は私にとって必要なんだって。ねぇお兄ちゃん、代わりにリパブリックの音楽落としてもいい?』
 好きなアイドルグループの新曲をダウンロードしてもいいか……という意味なのだろう。近衛は曖昧に頷いた。
 「あぁ。かまわない」
 『やった!ありがとう!』
 素直にはしゃぐ由岐の声を聴きながら、近衛はサイドテーブルの時計を見た。
 デジタル時計の表示は、午前二時半を指し示している。
 「由岐、そろそろ寝る時間じゃないのか」
 そう聞くと、再び不機嫌そうな声が聞こえてきた。頬を膨らませている姿が目に浮かぶようだ。
 『えー? さっき起きたばっかりなのに! 私は後三十三時間くらい起きていられるんだよ!』
 彼女の言う言葉に嘘は無い。由岐の場合、三十三時間ほどの覚醒は通常のサイクルと言っても良かった。
 逆に言えば、後三十三時間程しか、彼女は起きていられない。
 その後に待つのは、常人には耐えられないほどの長い眠りだ。

 『……ということでお兄ちゃん、今度来るときはシュークリームでも持ってきて! あ、でも来る前に電話してほしいな。私が起きてるかどうかわからないし』
 考えている間にも、由岐は話を進めていた。シュークリームが悪くなるといけないから、と念を押している。
 わかったと返事をして、近衛は暫く沈黙した。
 不意に、今日届いた手紙のことを思い出したのだ。
 由岐に手紙のことを言うべきか。急に押し黙った近衛を、由岐は怪しんだ。
 『もしもーし? お兄ちゃん?』
 「……いや、なんでもない」
 『えぇ? 何それ、逆に気になるよ。どうしたの?やっぱり何かあった?』
 「実は……ある人からスカウトされた」
 近衛は机の上に出しっぱなしになっている手紙に視線を向けた。
 素っ気ない茶封筒に、ただ一枚、用紙が入っている。いかにもお役所仕事と言った風情の文面に懐かしい名前を見つけて、近衛は珍しく動揺していた。
 「五十嵐要(いがらしかなめ)さんを覚えているか? 親父の部下だった……」
 スマートフォンの向こうで、由岐が声を上げる。『もちろん! 髭のおじちゃんでしょ?』
 ”泣く子も黙るヤマアラシ”と呼ばれた五十嵐も、由岐の前ではただのおじちゃんらしい。
 叩き上げの刑事として、近衛の父親から現場のイロハを教え込まれた五十嵐は、近衛と由岐をまるで自分の子供のように可愛がった。
 数年前、新しい職場に移ったと聞いたのを最後に、五十嵐との親交は途絶えている。この手紙を見るまで、近衛も忘れていた程だ。だが、手紙には確かに彼の名前が記されていた。
 ──新しい仕事を任された。ひいては、その職場で一緒に働いて欲しい。
 手紙の文面は奇妙にぼかされ、肝心なことは何一つ書かれていない。
 五十嵐はノンキャリアの刑事として、そこそこの地位にいたはずだ。今更自分と、どんな仕事をすると言うのか。
 父と妹の名前が無ければ、質の悪い悪戯と判断してゴミ箱行きになっていたところだった。そこに書かれている『近衛賢二』と『近衛由岐』の名前で、近衛は辛うじてその文面を信じることにしたのだ。
 由岐は懐かしそうに呟いた。
 『髭のおじちゃん、優しかったなぁ。おじちゃんにスカウトされるなんて、お兄ちゃんすごいよ。いい機会だし、会いに行くだけ行ってみたら?』
 あまり気は進まなかったが、由岐は前向きだ。恐らく、家に閉じ籠り気味の兄を心配してのことだろう。
 「わかった。とにかく話を聞いてこよう。それで、ひょっとしたら今回はそっちに行くのが遅れるかもしれない」
 『私のことなら心配しなくていいよ! シュークリームが食べれないのはちょっと、いやかなり残念だけど……』
 悔しそうに言ってから、由岐は何かに気づいたように声を上げた。
 『あ、じゃあもう寝なきゃ! 朝早いんじゃない?』
 時計を見ると、もう三時を回っていた。
 「そうだな。じゃあ、おやすみ」
 『うん、お休みなさい、お兄ちゃん』
 由岐はそう言って、電話を切った。

 通話停止のボタンを暫く眺めてから、近衛はスマートフォンをスリープ状態にした。
 台所に移動し、冷蔵庫から冷えた麦茶を取り出す。一気に飲み干すと、蒸し暑さが引いていった。
 リビングのソファに腰掛けて、近衛はもう一度手紙を広げてみた。
 五十嵐要。
 今、どこでどんな役職に就いているのか、まるでわからない。
 近衛が覚えているのは、じっとこちらを見つめていた五十嵐の目だけだ。
 あの日、茫然自失している近衛の肩を掴んで、五十嵐は短く告げた。
 ──大丈夫だ。由岐ちゃんも、お前も、俺が守る。それが、お前の親父さんとの約束だから。
 近衛は首を横に振って、物思いから抜け出した。
 いつの間にか、五十嵐のことを避けていたのかもしれない。彼の事を思い出すことは、そのまま過去の過ちを思い出すことに繋がるからだ。
 近衛はため息をつくと、短い仮眠に就く為、ベッドへと戻った。


 東京メトロを麹町で降りると、小雨が降り始めた。
 手紙にあった目的地は、直ぐに見つかった。新宿通りに面したビルで、周囲の建物より一際大きい。
 近衛は久しぶりに着る背広の感触を確かめながら、指定されたビルへと向かった。
 『あづまビル』と書かれた建物の三階は、二部屋しか無かった。
 近衛は唯一開いていた扉から中を覗きこんだ。
 部屋は、会議室と言うより大学の教室に似ていた。床には灰色のカーペットが敷かれ、どこも机がずらりと並んでいる。
 前方にはプロジェクターとノートパソコンが置かれ、その直ぐ前の机に、五十嵐要が腰かけていた。
 一瞬、自分がどこにいるのかも忘れて、近衛は五十嵐の後姿を眺めた。
 視線を感じたのだろうか。五十嵐がゆっくりと振り返る。
 目が合った瞬間、五十嵐は破顔した。
 「頼人……! 本当に来てくれたのか!」
 かつての癖で、思わず敬礼をした近衛に、五十嵐は苦々しい笑みを浮かべる。
 「お久しぶりです。長らく連絡も取らず、申し訳ありません」
 「おい、止めてくれ。そんな他人行儀な挨拶なんて御免だぞ」
 「しかし……俺は、恩を仇で返すような真似をしました」
 「いや、まぁ、その話は今度ゆっくりしよう」
 五十嵐がちらりと背後を振り返る。
 釣られて振り返ると、死角になっている机に、一人の青年が突っ伏していた。
 灰色のパーカーを着て、大きすぎるほどのヘッドホンを着けている。しかし同じ部屋にいる五十嵐と近衛を少しも気にしていないようだった。
 「……彼は?」
 問うた近衛に、五十嵐が頬を掻く。
 どう答えればいいかわからない時の癖だった。
 「あー……まぁ、詳しくは後で話すが、彼もスカウトしてきた人材の一人なんだ」
 確かに、スカウトしたという人間が、近衛一人だけなのは不自然だ。他にも同じような者がいると考えれば納得がいく。
 五十嵐は近衛に座るよう促した。
 「さて、仕事の説明を始めたいところだが……実は後一人、まだ着ていないんだ」
 「今日集められたのは、その一人も合わせて三人だけですか?」
 そうだ、と五十嵐は頷いたが、近衛は背後を振り返った。
 他にも誰かがいる気配がする。数人の微かな足音が、隣の部屋から聞こえていた。
 視線を元に戻すと、五十嵐が苦笑していた。
 「お前の鋭さは衰えてないな。 安心してくれ。俺の部下が数名、別室で待機しているだけだ。万が一に備えてな」
 「万が一……?どういうことなんです。こんな厳重に人払いするなんて」
 「勘違いしないでくれ。あくまでも今回だけだ。一応、機密に関することだからな。お前も、あの手紙を見てここに来たんだろう?」
 近衛は勢いを削がれ、押し黙る。
 手紙には、近衛の父親の名前もあったが、妹の由岐の名もあった。むしろ彼女について、多く書かれてあったのだ。
 ”──一度話がしたい。お前にも伝えたいことがある。由岐ちゃんの件だ、と言えばどれだけのことか、お前にもわかるだろう……。事は急を要する。もう身内だけの話じゃ無くなっているんだ”
 その手紙が何を意味するのか、近衛には理解できた。
 同時に、何故五十嵐がここまで回りくどく、表現をぼかして書くのかも。
 近衛は憮然としたまま頷いた。
 「わかりました。とにかく状況を教えて下さい」
 「そう言って貰えると助かる。まずは──」
 五十嵐が話し始めたその時、扉が勢い良く開き、部屋に人影が飛び込んできた。
 「うわおぉ! 遅れてすいません!!」
 まだ若い青年だった。
 赤茶と言うには赤すぎる髪をして、これまた真っ赤なTシャツの上から白い薄手のジャケットを羽織っている。
 青年は五十嵐の姿を見るなり、近衛と同じように敬礼した。
 「鹿屋良平(かのやりょうへい)です! 遅れて申し訳ありません!」
 大学生のような雰囲気を纏った青年が、ごく自然に敬礼したことに、近衛は内心驚いた。五十嵐が苦笑いしながら答礼する。
 「待っていたよ。早速だが、好きな席に着いてくれ」
 鹿屋と名乗った青年は、迷う事無く近衛の隣に座った。
 「それと……萩浦、君も起きてくれ」
 振り返ると、先程まで机に突っ伏していた青年と目が合った。黒いくしゃくしゃの髪に、真っ赤なメガネをかけている。どうやら彼が萩浦らしい。
 萩浦は視線をさっと反らし、俯いた。
 「そうだ。彼のためにこれを配っておこう」
 目の前に、真新しいスマートフォンが置かれた。既に電源が入っている。
 「これは?」
 「とりあえず、必要なものだ。彼とのコミュニケーションには欠かせないものでね」
 五十嵐がスマートフォンの画面をタップすると、見慣れたSNSの画面が映し出された。どうやらずっと裏でアプリが起動していたらしい。
 チリリン、と音を立てて、二台のスマートフォンが同時に鳴った。
 [こんにちは。萩浦律(はぎうらりつ)です]
 文面を読み、近衛は思わず首を傾げる。
 再び後ろを振り返ると、青年が恥ずかしそうに顔を隠しながら、凄まじいスピードでスマートフォンを操作しているのが見えた。
 [すみません。人見知りが激しいので、こうやって会話させて下さい]
 鈴のような着信音が鳴り、後ろに座る青年のメッセージが受信される。唖然として画面を見つめる近衛に、「面白い奴だろう?」と五十嵐が笑った。
 「……彼とのコミュニケーションの成立方法はわかりました」
 「それだけわかれば十分だ。さて、いい加減に話を進めよう」
 そう言って、五十嵐は冊子を配り始めた。

 冊子には、自分の顔写真が印刷されていた。どうやら、この場にいる者全員のプロフィールが記載されているようだ。
 隣に座っている鹿屋の職業欄は、『自衛隊員』となっている。去年まで、平和維持活動の一環として南アフリカに派遣されていたらしい。
 近衛は、どう見ても大学生にしか見えない隣の青年が敬礼した理由を悟り、納得した。道理で動きが機敏なわけだ。
 一方、特殊なコミュニケーションを必要とする青年は、高校を退学後、数年の無職期間を経てNISC(内閣サイバーセキュリティセンター)に採用されている。
 まともな就職活動で手に入れた内定では無いだろう。しかし、オドオドとした本人の態度からは想像もつかない経歴だ。
 近衛は眉を寄せたまま、顔を上げた。
「……随分と変わった人選ですね」
 五十嵐は鷹揚に答える。
 「まぁな。しかし、今から始める仕事にはうってつけの人材ばかりだ」
 五十嵐が手元のノートパソコンを操作して、プロジェクターを立ち上げる。同時に室内が薄暗くなった。
 「とりあえず、各人の自己紹介は後回しにさせてもらう。今から話すのは、過去に例を見ないプロジェクトの概要だ。お前たちに、今から『死ぬ運命にある者』を守ってもらいたい」


 薄暗い室内のプロジェクターに、不鮮明な写真が映し出される。細身の男がベッドに横たわり、カメラの方を向いていた。
 「彼はアルトゥール・カメノフ。1988年、ロシアに現れた最初の予知能力者だ」
 「……予知能力?」
 思わず聞き返した近衛に、五十嵐が頷く。
 「そうだ。テレビのバラエティーに出るようなペテン師じゃない。少なくとも十件以上の予知を実現させた者を、俺達は便宜上、予知能力者と呼んでいる」
 プロジェクターが切り替えられると、簡単なグラフが映し出された。
 「ここを見ろ。1980年代、アルトゥールを除いて、世界には予知能力者は存在しなかった」
 ほとんゼロに近い折れ線を指差す。
 だが、と五十嵐は指を進めた。
 「2015年を過ぎた辺りから、ぽつぽつと予知能力者の存在が明らかになっていく。そして2020年には中国に二人、アメリカに三人、そしてイタリア、リビア、ベトナム、リトアニアに一人ずつ、予知能力者が現れている」
 折れ線グラフは急角度で上を目指している。
 「そんなにいたのかよ……」
 近衛の隣で、良平が呻くように呟いた。
 「信じられないのも無理はない。未来予知なんてのは手品の一種だと思われていたからな。しかし最近になって急激に能力者が増えていることは確かだ。更に人数に比例して、予知の精度が上がっている」
 プロジェクターの写真が切り替わった。
 一人の若者が警官に腕を捻られ、苦悶の表情で路上に横たわっている。
 その時唐突に、机の上に置いていたスマートフォンが音を立てた。
 [七年前のテロ未遂事件ですね。予知能力者が解決したと言う噂があります]
 近衛は後ろを振り返りたい衝動に駆られたが、止めておいた。振り返ったところで、目を合わせて貰えないのはわかっている。
 「その通り。これはアメリカで実際にあった、予知能力者による犯罪防止に成功したケースだ」
 五十嵐はファイルを取り出し、読み上げ始めた。
 今から七年前、ニューヨークのロックフェラー・センターの爆破テロが、予知能力者によって阻止された。
 当事、犯人はCIAの捜査によって浮かび上がったとされたが、後の発表で、予知能力者の存在が判明した。
 この発表は世界中を驚かせた。何よりも科学を優先してきたテロ対策センターが、こともあろうにオカルトめいた能力を信用したのだ。
 「もちろんこれより前にも、予知能力者と呼ばれた人間が捜査に強力した例はあった。しかし時刻、場所、犯人の特徴等、全て言い当てたのはこの事件が始めてだろう」
 プロジェクターには、どこかの港で頬笑む中年女性が映し出されていた。ふくよかな体つきに、銀に近いブロンドをしている。
 「アンナ・ミラー。アメリカで確認された予知能力者だが、先の事件を未然に防ぐ予知を行った数週間後、息を引き取った。以後、アメリカで事件の防止に予知能力者を使った形跡は無い」
 五十嵐が淡々と説明する。
 近衛は、写真の中で微笑む女性を見つめた。
「しかしこの事件以来、世界中で予知能力に関する研究が盛んに行われるようになった。アメリカを筆頭にロシア、中国、テロに苦しむヨーロッパ各国も、少額だが予算を組み始めた。予知の精度は研究によって高まり、テロへの対策はおろか国際情勢にすら影響を及ぼしつつある。そして……いつものことだが、日本はその研究から取り残されていた。長らく予知能力者が現れなかったからな」
 五十嵐は言葉を区切り、ノートパソコンを眺めている。画像の切り替えを躊躇っているように見えた。
 「……過去形なのは、最近になって漸く日本にも予知能力者が現れたからだ。そして彼女の登場で、日本における予知研究は飛躍的に進んだ」
 一瞬、五十嵐と目が合った。近衛が頷くと、五十嵐は視線をノートパソコンに向け、エンターキーを押した。
 画面に、長い髪の女性が映し出された。ベッドの上に腰かけて、カメラに向かって手を広げている。
 鹿屋が短く口笛を鳴らした。
 「へー! 可愛いじゃん!」
 画面を見つめる鹿屋の横顔を、近衛は思わず睨み付ける。視線に気づいた鹿屋が、ぎょっとして腰を浮かせた。
 「えっ、何? な、なんで睨まれてるの?俺」
 怯える鹿屋に、五十嵐が苦笑いを浮かべた。
 「あぁ。彼女……予知能力者の近衛由岐さんは、そこにいる近衛頼人の実の妹さんだ」
 「……は? え?」
 ぽかんと口を開けて、鹿屋は交互に画面と近衛を見た。
 由岐は無邪気に笑っている。写真の中の彼女は、ごく普通の女性にしか見えなかった。
 ただ一つ、左側の髪が一房、真っ白になっていることを除いて。
 「頼人が怒るのも無理はない。なんと言っても彼女は、目に入れても痛くない程可愛い妹なんだ。そこら辺の男が言い寄ろうものなら、たちまち半殺しにされるぞ」
 半殺しと言う単語を聞いて、ますます鹿屋の顔が青ざめていく。比例するように、五十嵐はニヤニヤと笑った。
 「……まぁ、それは冗談として。彼女が頼人の妹であることは本当だ。そして、日本唯一の予知能力者であることも、な」
 次に映し出された画像は、人間ではなかった。体育館のような部屋一面にスパコンがずらりと並べられている。末端には巨大な装置が置かれていて、そこから管が幾重にも伸びている。
 「これが日本が編み出した、脳内を読み取る機械『ヒュプノス』だ。この写真にあるのはほんの一部だそうだが」
 目眩を覚えるほどの巨大さだった。
 機械の一部はぼかしの画像処理が行われており、『ヒュプノス』が機密扱いされていることを示している。
 五十嵐は数枚『ヒュプノス』の写真を映した後、ノートパソコンの画面をデスクトップに戻した。
 「さて、とりあえず予知能力についての知識はこんなところだ。今までのところで何か質問は?」
 すかさず着信音が鳴り響く。
 萩浦のメッセージが、全員のスマートフォンに映し出されていた。
 [肝心なところがまだわからないです。どんな仕事なんですか?]
 「それを説明するには、この予知の特長について話す必要があるが……」
 五十嵐が珍しく言い淀んだ。どう言えばいいか、迷っているようだ。
 「今まで予知は、能力者が予知内容を話すことで成立していた。しかし由岐ちゃん……失礼、近衛さんの予知は『ヒュプノス』を介して、脳から直接開示することができる」
 『ヒュプノス』は疑似AIを搭載した脳スキャニング機能を持っている。脳の海馬域に干渉し、睡眠時の記憶の保護や忘却すらも可能にしていた。
 スキャニングされた脳内の記憶は、『ヒュプノス』の内部で画像処理され、AIによってその画像が意味のあるものかどうか選別にかけられる。研究者の手元に届けられる画像は、写真のように鮮明な個人の記憶だ。
 一般人なら、それはただの過去の画像にすぎない。しかし近衛由岐の場合、画像は未来の出来事を指し示していた。
 「彼女の予知は、驚異的な的中率を誇る。ただし、彼女が実際に見たもの……即ち新聞やテレビ、雑誌からの情報が主になっている。誤報があれば、それも予知画像として出てくると言うわけだ。だが今のところ、予知の的中率は98%。これは世界の予知能力者の中でもずば抜けている。特に人の命に関わる事件や事故の予知は、176件の内たった3回しか外していない」
 鹿屋が小さく息を飲んだ。
 由岐の予知に限って言えば、それは最早予知ではなく現実に等しい。
 「それでも三件は外しているんですか?」
 近衛の質問に、五十嵐は頷いた。
「外しているというより、奇跡的に死を回避できたと言ったほうがいい。その場に居合わせた人や物が、偶然命を救ったパターンだ。しかしその偶然がなければ予知は事実になっていただろう。我々はこの三件と、死亡したその他の予知を徹底的に調べた。死を回避できる手がかりがあるんじゃないかと睨んでね。そしてそのヒントを得た。それが……」
 五十嵐が人差し指を立てる。

「一分間という時間だ」

Book Top  刻の守護者 目次   back   next


inserted by FC2 system