バランスが崩れる。
 なんとか運転席のシートを掴み、体勢を立て直そうともがくが、風に煽られて足を地面に着けそうになる。
 ──このままでは落ちる。
 そう思った瞬間、二本の腕が近衛を掴み、後部座席に引き上げた。
 直ぐさまドアを閉め、荒い息を吐く。
 顔を上げると、信じられないという表情の谷上が近衛のことを眺めていた。
 「な……き、君は一体……」
 ぜいぜいと息を切らしていた近衛は、すぐに息を整えた。
 「すみません。詳しい話は後でします。今は車を止めないと」
 言いながら、助手席へと移動する。谷上は呆れたように首を振った。
 「この車は自動走行になっているんだ。目的地付近で切り替わるように設定してある」
 谷上の説明に答えず、近衛はエラーの出ている計器を調べる。自動走行解除のスイッチを入れるが、動く気配は無い。
 計器から一旦離れ、運転席にいる園崎の脈を調べた。わずかだが脈がある。しかし今にも止まりそうなほど弱々しい。
 「他に何か、自動走行が解除できそうなものは」
 近衛が問うと、谷上は唸りながら答えた。
 「確か……ブレーキは自動運転に関係なく効いたはずだ」
 それなら話は単純だ。ブレーキを踏んで車を停めればいい。
 一瞬サイドブレーキを引くことも考えたが、速度が出た状態からのサイドブレーキは危険が伴う。後輪の制御が効かなくなる可能性があるからだ。
 近衛は迷いなく、動かせない園崎の足の上からブレーキを踏んだ。しかしすぐに違和感を覚えて足を離す。
 ──何かがブレーキに挟まっている。
 運転席の下を覗きこむと、ブレーキベダルと床の間に、ひしゃげた銀色の物体が見えた。ビールの缶だ。
 「何故こんなところに……!」
 苛だたしげに舌打ちし、缶に手を伸ばす。
 力を込めて引き上げると、ブレーキペダルの下から缶が抜けた。
 その瞬間、車内に凄まじい回転が巻き起こった。


  /タイムリミットまで、残り15秒/


 「うわぁあぁあ!!!」
 谷上が悲鳴を上げて転がった。タイヤが軋んだ音を立てている。
 近衛は遠心力で助手席のシートに叩きつけられた。何が起こったのかわからず一瞬呆然としたが、気力を振り絞り、顔を上げた。
 意識の無い園崎の体が、ハンドルに覆い被さっている。どけた弾みで前屈みになったのか、ハンドルは園崎の重みで大きく左へと傾いていた。
 近衛はハンドルに飛び付き、制御を戻した。
 キュルキュルと耳障りな音を立てていたタイヤは、ようやく回転を止めた。
 しかし、走りを止めようとはしない。
 車は綺麗に180度スピンし、来た方向とは真逆の方向へと走り出していた。
 ──高速道路を逆走している。
 「そんな馬鹿な!」
 ありえないことが立て続けに起こっている。自動走行は切ったはずだ。それなのに、何故まだ走っているのか……。
 近衛は咄嗟にハンドルを切り、向かってきた乗用車を交わした。
 他の車から一斉にクラクションが鳴らされる。


  /タイムリミットまで、残り7秒/


 その時、前方にトラックの影が見えた。
 トラックは左右を乗用車に挟まれ、車線変更できないままぐんぐん迫ってくる。運転手が必死にクラクションを鳴らし続けているのが見えた。

 ──これが、予知なのか。

 ありえない出来事が次々に起こっている。どれもこれも『谷上議員を交通事故死させる』ものばかりだ。
 由岐の予知で、谷上議員は必ずここで死ぬことになっている。
 ……もしこれが本当に避けられない運命なら。
 特定の『死』が決定していると言うのなら、俺の妹は、由岐は、何のためにその運命を読み解いているのだろう。
 自分の命と記憶を失いながら、何故無意味な未来を夢見続けているのか。
 近衛は唇を噛みしめた。
 
 由岐が未来を見るというのなら、その未来に意味を持たせなくてはならない。その為なら、例えどんな運命だろうと、捩じ伏せてみせる。

 「シートを掴め!」
 近衛は後部座席の谷上に怒鳴る。
 最早相手の立場など構っていられない。視界の隅で谷上がシートを抱き締めるのを確認して、近衛は今度こそ、力の限りにサイドブレーキを引いた。



 「止まれえぇええぇえ!!!!」



 車体が軋み、激しく揺れる。
 車内にあるもの全てが前方へ飛び出そうとする。悲鳴のような音が響いた。
 フルブレーキをかけたクラウンは、白煙を上げながらトラックへと突っ込んで行く。

  /タイムリミットまで、残り3秒/

  /2秒/

  /1秒/

  ……

  カチリ。




 今、自分がどうなっているのかわからない。
 もしかしたら死んでいるのかもしれない、と考えたところで、近衛は自分が意識を取り戻したことを知った。
 目を開け、座席の下から這い出す。
 運転席にはぐったりとした園崎が、そして後部座席には目を回している谷上の姿が見えた。
 車は、完璧に止まっていた。
 フロントガラスの数ミリメートル前に、トラックの巨体があった。ほとんど接触しているように見えたがぶつかってはいないらしい。
 近衛は助手席のシートに倒れこむと、大きく息を吐いた。

 しばらくして谷上が頭を振り、意識を取り戻す。怪我は精々打撲程度だろう。
 死の一分間は過ぎ去った。
 遠くでサイレンが鳴っている。救急車と警察車両がこちらへやって来ていた。
 その時不意に、車のドアが叩かれた。
 「おい!! ライト、無事か!?」
 鹿屋がドアを開け、車内を見渡す。
 「萩浦が救急車を呼んでる。俺たちはここにいちゃマズいってさ」
 見ず知らずの近衛が、議員の車に乗り込んで事故を防いだ等と、誰が信じるのか。
 いや、例え信じなくともマスコミには何の関係もない。ただ格好の餌食になるだけだ。
 近衛は鹿屋の手を取り、クラウンから外に出た。
 「ちょ、ちょっと、君!!」
 振り返ると、谷上が慌てた様子で身を乗り出していた。
 「君は一体何なんだ? まるで私を助けに来たかのような……こんなことになると、予測していたのか?」
 少し躊躇って、近衛は青ざめている谷上に告げた。
 「……予測ではありません。あなたの死は予知されていた。俺は、それを防いだだけです」
 谷上が目を剥く。
 「だ、誰かの陰謀か!?」
 それには答えず、近衛はその場を後にした。
 谷上が事実を知る日がくるかもしれないが、それは自分には関係無いことだ。
 鹿屋の車に乗り込むと、どっと疲労感が押し寄せてきた。
 今更のように手が震えている。
 発進した車内で、鹿屋が悲しげにぼやいた。
 「……後は五十嵐のおっさんが手を回してくれるってさ。あぁ、俺の車も直してくれねーかな……」
 「廃車にならなかっただけマシだろう」
 「そういう問題じゃねぇ! ……でもまぁ、お前が無事で良かったよ」
 近衛は通り過ぎる景色を眺めながら、安堵のため息をついた。

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