忘却は神の愛だと、どこかで聞いたことがあった。悲しい出来事も、時が過ぎれば薄まっていくのだと。
 だが、忘却は時に暴力でもある。
 朋河は、研究室の一角でコーヒーをかき混ぜながら、頬杖をついた。
 「頼人君。君も知っての通り、予知は人には過ぎた力なんだよ」
 目の前のコーヒーには手をつけず、近衛が俯く。
 研究室は、朋河のオフィスと違って書類の侵食は受けていなかったが、パソコンと『ヒュプノス』の一部と思われるケーブルがいくつも床を這っている。しかしそれでも座って話をするスペースがあるだけマシだった。
 「睡眠による筋肉の衰えもそうだけど、それより膨大な記憶……いや、情報と言ったほうがいいかもしれない。その情報が彼女の脳にもたらすダメージのほうが深刻なんだ。それには由岐ちゃんの予知の特性から説明したほうが良いと思う」
 コーヒーを一口啜り、朋河が腕を組む。
 「五十嵐さんからさっき連絡があったよ。中々刺激的なことを始めたそうじゃないか。良い機会だから、君にも由岐ちゃんの力のことを、今度詳しく説明しよう。もちろん他の二人も一緒にね」
 「二人……鹿屋と萩浦のことですか」
 他人に由岐のことを知られるのは抵抗があったが、そう言ってもいられないだろう。
 戸惑う近衛を他所に、朋河は目を輝かせる。
 「どんな名前か知らないけど、生徒が増えるのは大歓迎だ。久しぶりに講義できるなんて、研究者としての血が騒ぐねぇ!」
 人に何かを教えることが好きな朋河は、満面の笑みを浮かべる。研究さえなければ、彼女は今でも大学で教鞭をとっていただろう。
 「お手柔らかにお願いします。俺は全くと言っていいほど先生の研究には無知なので」
 「もちろん、小学生にだって解るくらいの説明を心掛けるさ。ただ、ややこしい現象だからね、時間っていうのは」
 愉しげに喋っていた朋河の顔が不意に曇る。
 「……ま、詳しい話はその時にするとして。今、由岐ちゃんの身に何が起こっているのか、簡単に説明しておくよ」
 朋河は傍らに置いた鞄からファイルを取り出した。厚さは軽く見積もっても2センチ以上あるだろう。
 朋河がファイルの中身を数枚とり出し、近衛の前に差し出した。
「これが予知画像。こっちが過去の画像。所謂、記憶ってやつ」
 近衛は2枚の写真を見比べた。
 片方は、どこかのテレビの映像だった。有名人の名前が書かれたテロップに、『浮気』の二文字が踊っている。街頭でインタビューを受けている女性が、どこか悲しげな表情で、ファンでした、とカメラに向かって答えていた。
 「面白いだろう? 由岐ちゃんの予知によれば、いつかは分からないけど俳優が浮気するらしい。俳優には今日までの離婚歴がなかったから、これは未来の画像ってわけ」
 さも楽しそうに言って、朋河はもう一枚の写真を指で指し示す。そこには近衛自身の姿が写っていた。
 写真の中の近衛は紺色のシャツを着て、椅子から立ち上がっている。その視線の先には、灰色のボルゾイ──クラリスがいた。
 「これは……?」
 近衛は写真を手に取ると、目を細めて眺めた。
 部屋の配置も、自分の着ているシャツも、先程の光景と全く同じだ。
 朋河は微笑んだ。
 「これは由岐ちゃんがついさっき見た光景だよ。でも、この写真はさっき撮ったものじゃない。彼女はカメラになんて持ってなかったし、スマホでも撮ってない。これは『ヒュプノス』から1週間くらい前に出てきた画像なんだ」
 コーヒーを飲み干した朋河が頬杖をついた。
 「だからあたしは頼人君がクラリスに噛まれないことを知っていた。1週間も前からね」
 近衛は繁々と写真を見つめた。その写真の上に、朋河はどさりとファイルを乗せる。
 分厚いファイルの隙間から、様々な写真が溢れ落ちた。
 「で、こっちがそういう予知が終わった画像の束。ねぇ頼人君。これがどれくらいの頻度で出てくると思う?」
 「……わかりません」
 目が眩みそうなほどの写真の量だ。
 「答えは1日。たった1日でこれだけの情報が集まる。かわいそうに、お陰で『ヒュプノス』はメンテナンスを除いて年中無休。でも文句一つ無く働いてる」
 朋河は呆然とする近衛の目の前で、一枚の写真を振った。
 「由岐ちゃんはね、既に終わってしまった出来事や、過ぎ去った出来事も一緒に夢を見ているの。わかりやすく言うと夢ってことになるのかな。でも一番近いのは"体験している"って感覚だと思う」
 「それは、夢の中で過去や未来を見ている、ということですか」
 近衛の問いに、朋河は首を傾げた。
 「少し違うかな。過去や未来は私達が勝手にそう思っているだけであって、彼女は……どちらかといえば、同時に"全てを見ている"と言ったほうが正しいかもしれない」
 「全てを、ですか」
 「うーん。言葉にするのは難しいね。今度の課題としておこう……まぁとにかく、彼女の脳は常人のおよそ15倍ほどの記憶や画像処理に追われている。まともな人間なら一月も経たない内に廃人さ。その膨大な情報を並列処理して海馬に戻したり、または薬の力を使って忘れさせたりしているお陰で、由岐ちゃんは何とか普通の思考を保っていられるんだ。でも……」
 朋河は首を横に振り、短く息を吐いた。
 「以前、忘却薬の話をしたことがあると思う。それを飲み続けている内は、脳の負担が一時的に軽減される、とね。安全性については全く問題ない薬さ。それでも、想定以上の長期間に渡って摂取し続けていれば、どんな副作用があってもおかしくない。由岐ちゃんが頼人君の名前を忘れることだって考えられる……さっきみたいにね」
 忘却薬は、既に一部の医療機関で使われている。辛い過去やトラウマを軽減させる為、精神科医等が治療に用いているが、由岐のように常用しているわけではなかった。
 「……失われた記憶は、どうなるんですか?」
 拳を握りしめていた近衛が聞くと、朋河はため息をついた。
 「どうもならない。忘却は忘却だよ。このままの状態が続けば、由岐ちゃんの記憶はもっと失われる可能性がある。これ以上の記憶喪失を避けるために、あたしたちは色々な方法を模索している最中なんだ」
 朋河の顔に疲れが滲んでいた。髪染めの色は褪せ、白衣にも皺が寄っている。
 だけど、と朋河は続けた。
 「必ず彼女を救う方法があるはず。君はあたしたちのことを、胡散臭い奴らだと思ってるかもしれないけど、できれば信じてほしいんだ」
 「そんなこと思っていません。先生には本当に良くしてもらっています」
 近衛は本心からそう答えた。

 あの日、由岐のこめかみにできた傷は軽いものだった。銃弾は僅かに擦っただけで、出血こそ酷かったものの、縫わなくてもいいほど軽傷だった。
 数時間の処置を終えて病院から出てきた由岐に、近衛は詫びた。今までに見たこともないようなやつれ方をしている兄に、由岐はあっけらかんと言ってのけた。
 『仕方無いよ。お兄ちゃんは正しいことをしたんだし。それにほら、私も無事だったんだから!』
 どうしてもって言うなら、今度近所にできた中華料理店に連れていってよ。そう言って無邪気に笑う由岐の姿に、近衛は内心ほっと胸を撫で下ろしていた。
 だがそれから数日後、学校へ行く準備をしていた由岐は頭が痛いと訴えだし、ついに意識を失った。
 近衛は今度こそ目の前が真っ暗になった。
 慌てて担ぎ込んだ病院の医者は、由岐に診断を下せなかった。今まで見たこともないような脳波形ですが、傷や血栓、腫瘍は見当たりませんと答えるので精一杯だったのだ。
 若い医者だった。取り乱し、何度も頭を下げる近衛に向かって、医者は難しい表情で言った。
 『近衛さん。僕のかつての先生に、その道の権威がいます。彼女ならあるいは……』
 『お願いします。少しでも希望があるなら、その方に診てもらって欲しいんです』
 ほとんど藁にもすがる思いで頭を下げる。そうして紹介されたのが、朋河夏子だった。

 朋河は出会った頃と同じく、屈託の無い笑みを浮かべた。
 「そう言ってもらえると嬉しいねぇ。君には色々迷惑をかけているだろうし」
 近衛がいいえ、と首を横に振ると、遠くから誰かを呼ぶ声が聞こえてきた。どうやら朋河を呼びに来たらしい。
 朋河はファイルに写真を直し、立ち上がった。
 「引き留めて悪かったね」
 「いえ。こちらこそお忙しい中ありがとうございました」
 「いつも固いねぇ、頼人君は。またこちらから連絡するよ。五十嵐さんによろしく言っておいてね」
 さっぱりと言い、朋河は後ろ手に手を振りながら部屋を後にする。近衛は閉まった扉に向かって、一礼した。

 空が暮れていく。
 茜色を帯びた雲が細く、刷毛で塗ったような跡を残している。昨日とは違い、東京の空は高く晴れ渡っていた。
 天気予報と株価指数が大型スクリーンに映し出されている。スクランブル交差点は、帰宅中の人々と遊びに行く人々で溢れかえっていた。
 近衛は行き交う人の間でしばらく立ち止まり、スクリーンを見上げた。
 ──世界は予報に満ちている。
 数分後すら解り得ない世界で、人間は未来を知りたいと願ってきた。明日の天気や株の動きを知りたいと切望してきた。
 だが、もしそれが本当に叶うとするのならば。
 近衛は再び歩き出しながら考える。
 未来がわかるとするのならば、自身が死ぬ時もわかるのだろう。自分がこれから何を成し何をしないのか、全てわかってしまうとしたら? やがてそんな時代がくるのだとしたら?
 もしかすると、予知によって何もかもうまくいくかもしれない。だが近衛はどうしても、そんな世界に価値を見いだせなかった。
 夕暮れの光の中、時間通りに滑り込んできた列車に乗って、近衛は家路に就いた。

Book Top  刻の守護者 目次   back   


inserted by FC2 system