東京オリンピック以後も、再開発は緩やかに続けられている。2020年の直前には真新しいビルが次々と建っていったが、それも昔のことだ。
 虎ノ門にも数年前、再開発という名目で、いくつかのビルが建て替えられた。目的のビルも再開発の一環で建設されたものだと聞く。しかし外観は質素を通り越して地味だった。
 ビルは一見すると普通の商業オフィスに見える。明るいクリーム色をした短毛絨毯が引かれ、入ってすぐの受付カウンターには品の良い女性が座っていた。
 近衛がカウンターに近づくと、受付嬢は笑顔で内線のボタンを押した。
 「先生、ご家族がお見えになりました」
 受付嬢はそれだけ告げて、近衛に廊下の先へ行くよう促した。
 廊下には巧妙にいくつものセンサーが隠されており、通る者の虹彩や身体的特徴を瞬時に読み取る仕組みになっている。いちいち立ち止まる必要は無いが、登録者以外は立入禁止となっていた。
 センサーを通り抜け、先のエレベーターに乗る。
 エレベーターは地下3階を指し示し、重力の変化を感じる事無く降りていった。
 扉の先にあるのは、病院と見紛うような清潔な空間だ。空調が行き届いた白い廊下を、数人のスタッフが忙しそうに歩いている。
 スタッフは見慣れた近衛の姿を見ると、愛想よく会釈した。
 「いらっしゃい、頼人君」
 聞き覚えのある声に振り返る。
 朋河夏子はいつものように、書類や本を山のように抱えて立っていた。
 「早速で悪いんだけど、これ運んでくれる?」
 あいさつもそこそこに、朋河から書類を受け取り奥のオフィスへと運ぶ。いくつものドアが並んだ地下は窓が無いだけで、他のビルとなんら変わりないように見えた。
 朋河のオフィスは散乱していた。
 当初は高級感のあるマホガニーのデスクや本棚が並んでいたはずだが、今ではほとんどが書類に埋もれている。
 「そこのファイルを適当にどかしといて。足で除けてくれればいいから」
 朋河が近くの椅子に書類を下ろす。さすがに足で動かすことは出来ない為、書類の山をいくつか跨ぐ羽目になった。
 「いつ見ても凄いオフィスですね」
 ようやく書類を下ろした近衛は、辺りを見回した。ここでどうやって仕事をしているのか不思議でならない。
 「そう? これでも研究部署が紙に埋もれないように頑張ってるんだけどね」
 朋河はそう言って笑う。とてもこの研究所の総責任者には見えない、少女のような笑顔だ。
 かつて飛び級でMITを卒業し、秀才ともてはやされた朋河が、どうして学会から背を向けて脳科学の研究にのめり込んでいったのか、近衛は知らない。知っているのは、彼女が由岐の専属の研究者であり、命の恩人だと言うことだけだ。
 「頼人君、由岐ちゃんに会いに来たんでしょ? もうそろそろ眠る時間だよ。呼び止めて悪かったね」
 書類で出来た不安定な椅子に座りながら、朋河は髪を掻き上げた。軽く一礼して、近衛はオフィスを出た。
 曲がりくねった廊下の先に、目的の扉があった。
 無機質な研究所内にあって、その扉だけが木製だ。横にはかわいらしい文字で『ゆき』と書かれたプレートが掲げられていた。
 扉を開くと、近衛由岐はぱっと顔を明るくした。
 「お兄ちゃん!! もう、遅いよ!」
 口調は怒っているが、目が笑っている。近衛は近くのパイプ椅子に座りながら謝罪した。
 「すまない。もう少し早く来れる予定だったんだが」
 「危うく寝ちゃうところだったよ。あ、そうだ! シュークリーム!」
 来る途中で買ったシュークリームの箱を掲げて見せると、由岐は黄色い歓声を上げた。
 「やった! 後で先生と分けて食べてもいい?」
 「もちろんだ。さっきオフィスで書類と格闘していた。俺も手伝ったが、もう少しでシュークリームが潰されるところだった」
 あくまで大真面目に言う近衛に、由岐は吹き出した。
 「何それ。もう、先生もお兄ちゃん使いが荒いなぁ」
 由岐は長い黒髪を下ろし、パジャマでは無く無地のシャツにカーディガンを着ていた。一見すると入院患者のようにも見えるが、医療機器らしきものは部屋に無い。しかし由岐が髪を掻き上げると、首の後ろに小さなデバイス装置が見えた。
 デバイスは由岐の脳まで埋め込まれている。デバイスと『ヒュプノス』を接続し、由岐の脳内をスキャンする為だ。部屋の壁一枚隔てたところに『ヒュプノス』の一部があることを、近衛は知っていた。
 機械の全景は巨大すぎて見ることができない。建物の地下は地上部分の3倍もの面積を持っていたが、そのほとんどを『ヒュプノス』が占めている。
 全ては、たった一人の脳を分析するため。
 近衛由岐という少女が持つ、未来を垣間見る為に生み出された装置。
 手を止めて首筋を眺める近衛に、由岐は眉根を寄せた。
「どうしたの? お兄ちゃん。あ、そういえば五十嵐さんのお話どうだった? 何か言ってた?」
 「あぁ……」
 近衛はどこまで喋って良いものか思案しながら、昨日の話をかいつまんで聞かせた。
 「五十嵐さんが新しい仕事をする為に、人を探していたんだ。あまり派手な仕事じゃないが、それなりに体を動かすようだ」
 我ながら嘘が下手だなと近衛は內心呆れ返る。しかし由岐は無邪気に手を上げた。
 「良かった! 私も心配してたんだよ。お兄ちゃん、自分のこととなると本当に無頓着なんだから」
 その通りだった。近衛は由岐が事件に巻き込まれるまで家事全般をこなしていたが、最近では食事すら出来合いで済ませるようになっている。一人では広すぎる家に帰るのも億劫だった。
 もうちょっとしっかりしてよ、と由岐が怒るフリをする。
 しかしふと視線を落とし、彼女は自分の足を撫でた。
 「……あの頃、お兄ちゃんが危ないことをするんじゃないかって、五十嵐さんはすごく心配してた。私のことでずっと自分を責めてたみたいだから。せめて私が動ければ、時々でも家に帰るんだけど」
 由岐の足は、常人の半分ほどの細さに痩せていた。
 一定の周期で覚醒と睡眠を繰り返す生活で、彼女の筋肉は衰えていく。数十時間覚醒し、その後、一週間以上眠り続けるのだ。
 眠っている間に、『ヒュプノス』は脳内のスキャニング画像を分析し、収集する。その一方で、由岐の肉体は衰え続けていた。
 今は薬剤投与と電気刺激で、眠っている間でもある程度の筋力維持が出来ている。しかしそれでも、3年に渡る眠りの周期は、由岐の体力を確実に落としていった。
 「だからお兄ちゃんが健康で文化的な生活を送れるように、信頼できる人が必要なんじゃないかって思ってたの。その点、五十嵐さんになら安心して預けられるからね」
 何故か得意気に言って、由岐が頷く。まるで保護者のような態度だ。
 「それほど荒れているわけじゃない。ただやる気がでないだけだ」
 「それを荒れてるって言うんだよ……。あんまり五十嵐さんに迷惑かけちゃダメだよ? それと……」
 更に由岐の小言が続きそうになったその時、扉が開いて朋河が入ってきた。側にはまるで朋河を守るかのように、一匹のボルゾイ犬が寄り添っている。
 「先生! それにクラリス!」
 クラリスと呼ばれたボルゾイは、迷いなく由岐のベッド脇まで歩くと、くるりと振り返り近衛に軽く唸ってみせた。
 近衛はクラリスの姿を見た時から、椅子を立っている。
 朋河は一人と一匹の静かな戦いに苦笑した。
 「まったく、あんたたちは仲が悪いね。いつか噛まれるんじゃないかとひやひやするよ」
 「そう思うなら、クラリスをどこかに置いてきてください」
 近衛は真剣に言って、いまだに敵意を見せる大型犬を横目で見た。
 クラリスは子供がいない朋河夫婦が飼っているボルゾイだ。灰色の巻き毛をしたメスで、時々この研究所へやってくる。
 犬にもプライドがあるらしい。クラリスの性格はまさしくプライドの塊で、これと決めた人物以外は徹底的に嫌う。
 クラリスにとって、由岐は主人である朋河の次に大切な人間だった。だが、兄である近衛には、容赦なく牙を剥いた。
 「大丈夫よ、今まで噛まれなかったんだから。あ、頼人君が噛まれる予知画像が出てきたら教えてあげる」
 朋河の言葉に、けらけらと由岐が笑う。近衛は憮然として、部屋の隅に移動した。もちろん、クラリスの牙から逃れる為だ。
 しばらく雑談した後、朋河はクラリスとともに引き上げていった。
 その 後ろ姿を見送った由岐が、大きなあくびをして呟いた。
 「……そろそろ眠る時間だなぁ」
 部屋の明りが、夕方を指し示す暖色系に変わりはじめていた。窓の無い部屋では、色が大体の時刻を教えてくれる。
 由岐はしばらくごろごろとベッド上に転がった後、諦めたように横になった。
 「もう寝るよ。また一週間くらい後でね」
 そう言って、すぐにうつらうつらし始めた由岐に、近衛は毛布をかけた。
 「あぁ、また来るから」
 そう言って立ち上がりかけた近衛の袖を、由岐が引いた。どこか不安そうな表情で近衛を見つめている。
 「ねぇ、お兄ちゃん」
 「……なんだ?」
 由岐はしばらく視線を泳がせていたが、やがて静かに言った。
 「お兄ちゃんの下の名前って、頼人だよね?」
 一瞬、何を言われているかわからずに反応が遅れた。しかしすぐに頷いてみせると、由岐はほっとしたような表情で笑った。
 「なんだか最近、名前が合ってるかどうか不安になって……お兄ちゃんの名前を忘れるわけないのに。変なこと聞いてごめんね」
 笑って誤魔化しているのがわかるほど、聞いた由岐本人が動揺している。近衛は何と返せばいいかわからず、押し黙った。
 おやすみ、と言って由岐が眠りに就く。
 規則正しい寝息が聞こえてきたのを確認して、近衛はそっと部屋を出た。

Book Top  刻の守護者 目次   back   next


inserted by FC2 system