翌日。
陽が高く登り始めた頃、山陰に隠れるようにしてひっそりと立つ文乃の家にたどり着いた。
簡素な入母屋の家の横には小さな川が流れており、これまたおもちゃのように小さな水車が回っていた。開け放たれた玄関から、狗凪は声をかけた。
「ごめんください」
「はい、はい」
すぐに返事が聞こえた。
頬が林檎のように赤い少女が二人、奥の廊下から走ってくるのが見える。
「俺は里からの使いです。長から、文乃さんの様子を見てきてくれと」
「はい、はい。玄亥様、知っております。文乃様、奥におられます」
少女たちはくすくすと笑った。彼女たちは文乃の世話をする妖怪で、里では蛇童子と呼ばれていた。
少女たちの案内で、狗凪は美しい庭に面した部屋に通された。
夏の庭は青く、桜や柿の木が盛んに葉を茂らせている。狗凪は畳にあぐらをかいて、見るでもなくぼんやりと庭を眺めた。
その時不意に、誰かが隣の部屋に座っているのに気がついた。
いつからそこにいたのか判然としないが、女性は気配もなく、狗凪と同じように庭を見つめていた。
真っ白な十二単。
着物も、うなじも、背中を流れる髪も、すべてが白かった。ただその瞳だけが、ざくろのように赤い。
女性はゆっくりと狗凪のほうを向き、目礼した。
「遠いところ、わざわざご苦労様でした」
いえ、と狗凪はなんとか応える。
女性は記憶の中にある文乃の姿と何ら変わりは無かった。今にも掻き消えてしまいそうなほど儚い美しさが、彼女にはあった。
狗凪は居住まいを正して言った。
「こちらこそ、突然お邪魔して申し訳ありません。実は先日、長から通達がありまして」
「存じあげております。人間のことについて……人間がいなくなってしまったことについて、でしょう? 」
狗凪が頷くと、再び庭に目を向けながら文乃が小さくため息をついた。
「本当なのでしょうか。あれほどいた人間が、綺麗サッパリ消えてしまったというのは」
「少なくとも長はそう考えています。町にもどこにも人影がない。あれだけうるさかった人間たちが、ひとり残らず消えてしまった……。俺達も何度疑ったかしれません。どこかに誰か、一人でも生き残っているのではないかと」
文乃は僅かに色づいた唇を静かに動かして、まるで自分自身に問うように言った。
「では、やはり、人間はいなくなってしまったのですね」
しばしの沈黙があった。
その間に生ぬるい風が室内を通り抜けていく。生き物をじりじりと消耗させる熱気が、陽炎のように立ち上っていた。
文乃は何も言わず、ただ庭を見つめていた。狗凪もまた、肯定の意味で沈黙していた。
「……人間の町に、行ったことはありますか? 」
しばらくの後、文乃が一層小さな声で聞いた。
「何度もあります。人間がいた頃も数回。桐寿や閃は……俺の友人たちは、人間の学校まで行ったそうですが」
まぁ、と文乃が口元を押さえて驚く。今日初めて見る、彼女の活き活きとした表情だった。
「わたくしはたった一度だけ、町に行ったことがあります。もう随分前、町中を少しの間だけ歩きました」
遠い記憶を呼び起こすように、文乃は目を閉じた。
「恐ろしく騒がしいところでした。毎日お祭りをしているのかと思いましたが、これが普通なのだと後から知りました……子どもたちがとても楽しそうに道端で遊んでいました。わたくしの生まれたこの山とは、近くて遠い世界でした」
文乃は言葉を切る。ほうと吐き出された息には、どこか悲しみに震えている節があった。
「──何故、なぜ人間は消えてしまったのでしょう? 我々を置いて、どこへ行ってしまったのでしょう? 」
それは、あまりにも切なく響く言葉だった。嗚咽よりももっと激しく、文乃の悲しみを伝えていた。
「わたくしたちは、どうすれば良いのでしょう? 確かに我々妖怪は、人間とは距離を置いていました。しかし人間と共に生きてきた部分もあったのではないか……ごめんなさい、こんなことを貴方に言っても詮無いことだとはわかっているのですが」
「いいえ」
狗凪は首を横に振った。しかし続ける会話もなく、再び沈黙が落ちる。
文乃の憔悴した顔を盗み見て、狗凪はなんとも言えない、苦々しい感情がせり上がってくるのを覚えた。彼女の美しく儚い姿と生命力の溢れる庭の対比が、この上もなく皮肉で無情なものに思えてくる。狗凪は堪えきれずに立ち上がった。
「そろそろ失礼します……他郷の妖かしたちが動いているとの情報もあります故、何かあれば里の近くにおいでください。長が安心します」
「ありがとう。でもわたくしはこの山の主。そうそう出歩くわけにもまいりませんので」
慄然として言い放った姿とは裏腹に、文乃の瞳は揺れていた。どれほどのものが彼女の肩にのしかかっているのか狗凪にはわからなかったが、おそらくその重圧を消すことができる者は里にいないであろう。主というにはか弱すぎるその姿に、狗凪は玄亥の心配も最もだと思った。
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