短い別れの言葉を交わした後、後ろも見ずに帰路につく。
蛇童子たちに見送られ、山の険しい獣道に入ると、狗凪は短く息を吐いた。
周囲は静かだった。遠くで猿の鳴く声がし、鳥が樹の枝を揺らす音が聞こえる。熱気も森の中までは入り込めず、ただ青葉の香りがつんと鼻についた。
あの様子では気難しいと揶揄されるのも無理はない──狗凪は文乃を思い返しながら苦々しく思う。
水神でもある山の神の娘。そこらの妖かしでは手も足もでないほど、彼女の力は強い。だからこそ他の妖かしも無碍にはできず、陰口を叩きながらも遠巻きにしてきた。
しかし今は状況が違う。
人間たちが絶えた今、妖かしたちは降って湧いた『自由』に戸惑い、自分たちの状況すら定まらない。情けない話だが、情報一つ満足に手に入れることができないのだ。一種の無法地帯と化した妖かしの社会で、誰かが彼女の力に目をつけないとも限らない。
山神の力は未知数だ。しかし、少なく見積もって千年以上この地を守護してきた力ならば、なんとしてでも手に入れたいと願う連中が現れるかもしれない……。
そこまで考えて、狗凪は強く首を横に振った。
自分が深く考える必要はない。自分はあくまで玄亥の部下であり、使いっ走りと大差無い。玄亥の他にも歳経た妖怪たちがいて、彼らが話し合って里の方針を決める。それはいつの時代も同じことだ。
そもそも人間さえ死滅しなければ、こんな厄介なことにはならなかったのに。
陽の暮れかかった峠で、狗凪は足を止めた。
振り返ると、赤く色づき始めた太陽の下で人気の無い街が、灰色の死骸のように横たわっている。それは妖怪の狗凪ですらぞっとするような光景だった。
彼らは自分勝手に繁栄し、妖怪を山へ追いやり、挙げ句の果てには忽然と消えた。
狗凪は自分が苛立っていることに初めて気がついた。夕日に染まり始めた街を睨みつけ、その場に立ち尽くす。
今まで妖怪は自由に、気高く生きてきた。少なくとも狗凪はそう信じていた。
しかし人間が消えただけでこの体たらく。今の妖怪たちにかつての気高さなど、これっぽっちも見当たらない。野狐のように強がってみせるので精一杯だ。
「……俺たちは、人間に振り回されっぱなしじゃないか」
皮肉を込めて呟くと、いらだちが一層増した。
ひぐらしの鳴き始めた獣道に目を向けると、鬱蒼とした山が聳えている。狗凪は不意に、その道を走り出したい衝動に駆られた。
妖かしには多少なりとも理性が求められる。
好き勝手に生きるだけなら獣にもできるが、妖かしは獣ではない。かと言って、人間のように組織や社会を作るものでもない。
自然物と区別するという意味で、妖かしには一定の理性が必要だった。そうでなくとも獣のように人間を襲っていれば、いづれその人間に滅ぼされる。その人間がいなくなった今でも、妖かしには理性無きものを軽蔑する風潮が見受けられた。
狗賓であった狗凪も、理知的であるように幼い頃から言い聞かせられてきた。
狗凪の本当の姿は、巨大な灰色の山犬だ。野山を駆け巡り、山の神と人間との仲介役を長らく果たしてきた狗賓一族の生き残りである狗凪にとって、山犬に変化して帰り道を駆け戻ることなど造作も無い。
しばらく迷った後、狗凪は一度息を吸い込み、元の獣の姿へと戻った。
──妖かしは獣に非ず。
そう言い聞かされて育った狗凪だったが、山には小動物一匹見当たらない。今少し、元の馴染んだ体に戻って駆け行くのを、誰が咎めよう。
最近の人間の言葉で言えば、『ストレス発散』である。狗凪は犬の口ににやりと笑みを浮かべた。
軽く前足に力を入れるだけで、あらゆるものが視界から遠ざかる。灰色の山犬となった狗凪は、軽やかに獣道を駆け上った。その巨躯に驚いたうさぎやイタチが藪に飛び込み、眠りかけていた鳥達も、何が通りすぎたのかと樹上で大騒ぎしている。
楽しい。
狗凪は心の底から過ぎゆく景色を楽しんだ。
かつて烏天狗達から迫害され、その後も自分を押し殺し続けてきた狗凪にとって、獣の姿こそが本来の自分であるような気がしていた。玄亥に認められたことは素直に嬉しかったが、心のどこかでそんな自分を醒めた目で見ていたのも確かだ。
しかし今、山を駆け抜ける獣にとっては些細なことだった。
狗凪は満足気に喉を鳴らした。
倒木を軽く飛び越え、岩場を駆け下り、農道をあっという間に走り抜ける。その間、あの憂鬱な文乃の顔も自分の立場も全て忘れていた。
ようやく足を止めたのは、里の明かりが見え始めた頃だった。
文字通り山を駆け抜けた巨大な犬は、小さく息を吐き出してその場でくるりと宙返りする。次に立ち上がった時にはもう、狗凪は元の人間の体に戻っていた。
人間の体と言っても、隠すのが難しい耳や尻尾は出したままだ。狗凪は自分の服──修験装束に似ているが、それなりに着崩している──についた木の枝を払いのけ、何事もなかったように里に向けて歩き出した。
門番である提灯お化けに軽く挨拶して、狗凪は館の門をくぐった。
長の館は断崖に張り付いているようなお堂にしか見えない。しかし中は外見から想像できないほど広く、その大半を洞穴が占めている。妖かしたちにお達しがあるときはこの館に集まるのが常だが、そんな事態は長い里の歴史の中でも数えるほどしか無かった。
板を張り渡した長い廊下を歩いていると、鬼火が青白く灯り、足元を照らした。玄亥の私室は曲がりくねった廊下の先にあり、敵意あるものは決して辿りつけないようになっている。それでなくとも膨大な部屋と広大な敷地に迷う者が後を絶たず、長の元まで行くのは至難の業だ。
そんな迷路のような館を、狗凪は慣れた足取りで歩いていく。
廊下の途中まで来ると、控えていた狐面が狗凪に頭を下げた。
「長はこちらに」
緋色の着物を着た狐面は、代々里の長に仕える決まりとなっている。妖かしであるには違いないのだが、狗凪には彼がいつからこの里にいるのか見当もつかなかった。
狐面の案内≪あない≫で部屋に辿り着くと、玄亥は既にくつろいだ様子で胡座をかいていた。
灯明がわずかに揺れる室内は質素で、装飾と呼べるものは殆ど無い。玄亥は珍しくキセルでタバコを吸いながら、本を読んでいた。
「……あぁ、狗凪か。ちょっと待ってろ」
言われた通り隅で待っていた狗凪だったが、玄亥は本を眺めながらしきりにうんうん唸っており、一向に顔を上げる気配が無い。どうやら何かを考えているらしく、頭を傾げたり、何やら呟きながら頁を捲るその姿に、狗凪は物珍しさを覚えながら眺めていた。
やがて諦めたのか、玄亥はため息を付いてキセルの灰を落とした。
「どうにも俺はこういうのは苦手でなぁ。狗凪、お前わかるか? 」
そう言われて差し出されたのは、先ほどまで玄亥が読んでいた本だ。表紙に『現代囲碁入門』と書かれているところを見ると、どうやら囲碁の指南本らしい。狗凪は苦笑いしながら首を横に振った。
「自分はこういうのは苦手で」
「俺もだ。まったく、なんでこんな遊びを覚えなきゃいけねぇんだ? これだから爺は…… 」
玄亥が『爺』と呼ぶ妖かしは一人しかいない。先代の里長、ぬらりひょんだ。
「何かあったんですか? 」
狗凪が聞くと、玄亥は迷惑そうに眉根を顰めて「応よ」と答えた。
「あの爺、最近独りでつまらんから、俺に囲碁の相手をしろとか言い出してな。俺ぁそんな人間かぶれな遊びは嫌いだと言ったんだが聞く耳を持ちやしねぇ。何が悲しくて俺が囲碁なんて打たなきゃなんねぇんだよ」
ぬらりひょんの涼しい顔と、玄亥の険しい顔が碁盤を挟んでいる場面を想像して、狗凪は吹き出すのを堪えた。そんな狗凪をひと睨みして玄亥はフン、と鼻を鳴らす。
「しかし爺婆どもが揃ってこんな調子じゃ、俺も落ち着かねぇ。里の一大事だってのに、あいつらは呑気に囲碁ときたもんだ」
「隠居も寂しいのでしょう。先代はずっと里の為に働いてきましたから」
ぬらりひょんは、元々この山の妖かしではない。どこか別の土地から流れてきたと言われていた。
その風体は恰幅の良い坊主に似ていて、いつもぶらぶらとぶらついている。一見すると妖かしかどうかも怪しい風体なのだが、彼が一度声を発すると、その場に居た者は何故かぬらりひょんに従ってしまうのだ。
玄亥を含めた多くの妖かしがぬらりひょんを苦手としているのも、この不思議な力があるからだった。ぬらりひょんから頼まれると断れない。そのせいで、多くの妖かしが愚痴を零しつつ彼の指示に従ってきた。それはぬらりひょんが里長の役目から退いた後も続いていた。
まぁ確かにな、と玄亥が顎を擦る。とらえどころの無い長だったが、与える役目と指示は的確だった。だからこそ不平不満があっても長を続けてくることができたのだ。
「だけどあのぬらりひょんもな……わかるだろ、人間の一件以来がっくりきちまってて」
「前長が、ですか? 」
初耳だった。
常に飄々としているぬらりひょんが落ち込んでいる姿など想像できない。しかし玄亥は首を横に振った。
「人間の街にもよく遊びに行ってたからな。見ただけじゃわからねぇが、相当落ち込んでるみたいだ」
「まさか。確かに人間が滅んだことは驚きですが……それしきのことで、あの方がそこまで気落ちするとは」
「言うねぇ、お前も」
玄亥が力無く笑う。狗凪はそこで初めて、玄亥も疲れたような表情をしていることに気がついた。いつもよりどことなく覇気の無い玄亥を、狗凪は驚きと共に見つめていた。
「そういやお前、文乃の様子はどうだった」
話題を変えるように言う玄亥に、狗凪は文乃の様子を聞かせた。庭を見つめながら、人間の滅亡に心を痛める蛇妖の姿を思い起こすと、再びなんとも言えない苦々しさが湧いてくる。
玄亥はキセルを置くと、太い手で乱雑に髪を掻き乱した。
「予想通りだな……あぁもう、これで厄介事がまた増えた。文乃の奴、変なところで強情を張りやがって」
「やはり彼女をこの里に避難させたほうが良いかと。今はまだ何も起こってませんが、他の里の妖怪が彼女を見つけたら厄介なことになります」
「そうだな。南の里とはなんとか連絡がついたが、他はさっぱり情報が入ってこねぇ。あっちも相当荒れてるらしくてな。長の百々爺のほうが病気になりそうだなんて、笑えねぇ冗談を言ってくる始末だ」
百々爺は人を脅かし、病気にさせる妖怪である。その百々爺が倒れるというのだから、本当に笑えない冗談だ。
玄亥は皮肉っぽく笑っているものの、目は少しも笑っていない。そのことが、狗凪を不安にさせた。
「さてどうしたもんか。若ぇのは荒れるし古いのは落ち込むし。まったく、人間様がいなくなりゃ、天下御免の妖怪たちもこのザマよ……兎に角手が足りねぇ。狗凪、悪いが明日っからしばらく下の街の様子を見に行ってくれねぇか」
下の街というのは、人間たちが作ったあの街のことだ。狗凪は小さく頷いた。
「わかりました。見張りのほうはどういたしましょう」
「暇な狐にでもやらせるさ。そうそう、できれば使えそうなものや場所を報告してくれ。もし手が足りなかったらあいつらも連れていけや」
「……桐寿と閃のことですか? 」
「他に誰がいるってんだ。あのボンクラ共、まさか里が大変な時に面倒臭いなんて言い出すんじゃねぇだろうな」
玄亥は仁王のように狗凪を睨みつけた。桐寿はともかく、閃は里でも有名な怠け者で、玄亥と衝突したのも一度や二度ではない。その名を出したことを後悔しながら、狗凪は首を竦めた。
「さすがにそれはないと思います。最近は暇だと言っては腐ってましたから、声をかければすぐに動いてくれるでしょう」
「どうせ俺なんかがごちゃごちゃ言うより、お前が言ったほうが素直に聞くだろうよ」
わざとらしくそっぽを向いて、玄亥が腕を組む。その姿が拗ねた子供に似ていて、狗凪はまたもや吹き出すのを堪えた。
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