予知通りに亡くなった人を助けようとした人々は、口を揃えて言う。まるで見えない何かが襲ってきたかのようだったと。
 死に繋がる出来事が連鎖し、一度は助かった人も、次の偶然で命を落とす。死神が狙いをつけたかのように、あらゆる要因が、予知通りに死を遂行する。
 だが不思議なことに、一分間が経過した途端、死は回避された。
 「その瞬間とやらがどんなものか、正確にはわからない。何か感覚的なものだそうだが、事象として観測されていない。だが、聞き取りを行った者は全員、その一分間がわかると主張した」
 ただの偶然じゃない。なんらかの力が働き、『予知通りに死ぬように』仕向けた。そうとしか考えられない……。
 唖然として話を聞く三人よりも、話している五十嵐のほうが信じていないような表情だった。
 「最初にその話を聞いたとき、何を馬鹿なと鼻で笑ったよ。俺自信が”死の一分間”を体験するまではね」
 「……あなたが?」
 驚く近衛に、五十嵐が首を横に振る。
 「あぁ。俺も予知が実行される現場に行ったことがある……落下物に潰されて死ぬと予知されていた青年を、俺は確かに一度助けた。ギリギリのところだったが、鉄筋は青年を掠めた。助かったはずの青年は、その直後に落ちてきた看板に潰されたよ。まるで出来の悪いホラー映画を見ているようだった」
 自虐的に言って、五十嵐は視線を落とした。
 「俺が予知を信じたのは、その時が初めてだ」
 「でもその一分間が過ぎればどうなるんスか?」
 たどたどしい敬語で、鹿屋が手を挙げる。どこか幼い容姿も相まって、大学生にしか見えない。
 五十嵐は手元のファイルを捲りながら答えた。
 「一分間が過ぎれば死は回避される。死を免れた三件のうち、これまでに死亡した人間はゼロだ。予知の死が回避されれば、当分の間は安全だと見てもいいだろう」
 「……それ、マジで偶然の出来事なんスか?誰かが殺そうとしてたりとか」
 鹿屋が胡散臭そうに言う。そもそも偶然が連続して命を狙うなど考えにくい。
 「偶然とは言えないかもしれない。とある人の説だが、死の一分間は予知ありきの出来事だと言うんだ。予知された死を実現するために、あらゆる偶然が重なったとしか思えない……朋河先生はそう言っていた」
 五十嵐の言葉に、近衛が思わず呟く。
 「朋河先生……朋河夏子先生ですか」
 「あぁ。主治医ではないが、由岐ちゃんの研究者だからな」
 朋河夏子は日本における予知研究の第一人者だ。まだ未来予知がペテン師呼ばわりされていた頃から、積極的に論文を発表していた。
 それは日本政府が予知の有用性を認めた後も変わっていない。むしろ予算がついたことで、彼女の研究は世界に匹敵する程の成果を上げつつあった。
 しかし、と近衛は腕を組み直す。
 「なぜその研究に警察が絡んでくるんです? 未然に市民の安全を確保する為ですか」
 警察の人間が、脳や未来予知の研究に関わるのは不自然だ。
 五十嵐は頬を掻き、諦めたようにため息をついた。
 「言おうと思ってたんだが、タイミングが掴めなくてな。俺は今、公安調査庁の調査第二部に所属している」
 「公調?」近衛は思わず聞き返した。五十嵐が頷く。
 「そうだ。簡単に言えば海外のテロなんかの情報を集めることが俺の仕事だったんだが、さっきも言った通り、日本に世界でも類をみないほどの予知能力者が現れた。そのことで上から指示があったのさ。世界に先駆けて、予知能力をモノにしろと」
 未来がわかれば自ずと主導権を握ることができる。事件や事故だけではない。政治家のスキャンダルや世界情勢が予知できれば、それだけでイニシアチブを取ることが出来るのだ。
 しかし予言するだけでは意味がない。大規模なテロや事故を未然に防げてこそ、予知に意味がある……。
 「そう考えたお偉方が、ものは試しと立ち上げたのがこのプロジェクトだ。正直に言うとどこからも期待されていない。だからこそ、成果を上げればそれだけ見返りもデカいだろうな」
 「プロジェクトとは?」
 「言っただろう、一分間が過ぎれば死は回避できると。お前たちには、命に関わる予知を防いでもらいたい。その為には一分間だけ、何がなんでも対象者を守らなければならない。これはそういう仕事だ」

 沈黙が下りた。
 長い話を終えて、五十嵐が小さく息を吐く。近衛は身動ぎ一つせずに前を見据えていた。
 「……で、俺達がここに呼ばれたってワケっスか」
 鹿屋が気だるげに言う。
 「得体の知れない情報を元に、命を賭けろって? そんなリスキーなことさせた挙げ句、誰からも期待もされてないなんて」
 未来予知はいいんだけどさぁ、と赤い髪を乱雑に掻く鹿屋に向かって、五十嵐は大真面目に答えた。
 「俺は期待している。勝手な話かもしれないが……俺が救えなかったあの青年の為にも、な。とは言え、無理強いはしない。分の悪い話なのは承知している」
 「俺はやります」
 即答した近衛を、五十嵐は暫く見つめた。
 「……いいのか?」
 「今更それを言うんですか。このプロジェクトは由岐と俺があってのものでしょう」
 違いますかと言い募る近衛に、五十嵐が額の汗を拭う。しかし問いには否定も肯定もしなかった。
 由岐が予知能力に目覚めたのも、近衛が引き起こした事件がきっかけだった。贖罪の為にも、我々に協力しろと暗に匂わされているのだ。近衛にとって、他に選択肢はない。
 再び沈黙が流れ始めた頃、思い出したかのようにスマートフォンが鳴った。
 [僕もやります。お役に立てるかわからないけど]
 萩浦は俯いたまま手の中の画面を眺め続けている。その表情を窺い知ることはできないが、SNS上での彼は普通に喋るらしかった。
 「ちぇ。俺だけかよ、危機意識を持ってるのは」
 鹿屋が頭の後で手を組み、拗ねたように言う。しかし直ぐに、にやりと笑ってみせた。
 「……まぁ、面白そうだけどな。隊に戻るつもりも無いし、いいぜ。俺もその話乗った」
 かろうじて保たれていた敬語も消えている。どうやらこの軽い口調が鹿屋の素であるらしい。
 「それで、俺達は何をすればいいんです?」
 近衛が聞くと、五十嵐はペンで机をコツコツ叩いた。
 「プロジェクトの性質上、表だった組織にするわけにはいかない。だからとりあえず民間の警備会社を立ち上げる。オフィスも用意しよう」
 「マジかよ。まさかそこで事務しろってわけじゃないよな?」
 「そう言うわけじゃないが、いつ予知が出るかわからない以上、基本的に待機になるだろうな」
 「……無職と変わらねー気がする」
 ぼやく鹿屋に、五十嵐が苦笑した。
 「そう言わないでくれ。俺もできる限りのことはするが、立場上身軽に動くのは不可能だ。お前達が独断で動かなければならないケースもあるだろう。俺はお前たちの上司じゃない。ただの相談役とでも思ってくれていい」
 言い換えれば、どんなことが起こっても責任を取らない、と言う意味だ。五十嵐が属している組織を考えれば当然と言えた。
 それでも三人の中で、降りると口にする者はいなかった。
 「とりあえず今日のところは解散だ。詳しい話は追って連絡する」
 そう言って五十嵐はファイルをまとめた。鹿屋が席を立ち、次に萩浦が、出ていってもいいものかとおろおろしつつ、その場を後にした。
 「……なぜ、彼らなんですか?」
 近衛は二人が消えた扉に視線を向ける。あまりにも不思議な人選だった。
 「理由は色々だが、直接聞いた方が早いだろう。それに、お前だって人のことは言えないぞ。まさかこの話を受けてくれるとは思わなかった」
五十嵐が目を細めて笑う。
 「俺はずっとこの日を待っていた。お前が再び立ち上がって、前に進む日を」
 ──あの日。
 重体に陥った由岐と、取り乱している近衛に向かって、五十嵐は誓った。
 自分がこの兄妹を守らねばならない。それがかつて、どうしようもなく腐っていた自分を救ってくれた、近衛賢二への恩返しなのだと。
 だが皮肉なことに、近衛を庇おうとした五十嵐も組織から煙たがられ、容易に身動き出来ない状態に陥った。その事を、近衛は知らない。
 これで漸く、親父さんに顔向けができる。五十嵐は喜びを隠せなかった。
 しかし近衛は床に視線を落としたまま、首を横に振った。
 「俺は未来なんてどうでもいいんです。過去に……あの日、あの瞬間に戻れるなら、なんだってする。自分を撃ち殺すことも厭わない」
 「頼人……」
 「俺が誰かの命を救おうと、由岐は予知を止めない。止めることができない。他の予知能力者と同じように、命をすり減らしながら、由岐は夢を見続ける」
 唇を噛み締めて、近衛は呻くように呟く。
 「俺に出来ることなんて、何一つ無い。あの日、由岐に向かって引き金を引いたあの瞬間から、何一つ……!」
 「頼人、もういい。自分を責めるな」
 無言で俯く近衛の肩を、五十嵐は力強く叩いた。
 「この仕事で何かを見出だせるかどうかはわからない。だが、それでも俺は、ここに来た全員に意味がある仕事だと信じている。もちろんお前にもだ」
 これはお前にしか出来ないことだ──五十嵐の言葉を反芻して、近衛は曖昧に頷いた。

 外に出ると、雨が上がっていた。雲の隙間から青空が顔を覗かせている。
 今から研究所に行けば、起きている由岐に会えるかもしれない。近衛は腕時計を確かめ、駅に向かった。
 湿度を帯びた空気が、人の波と共に、東京の夕暮れを流れていく。
 由岐が好きなケーキ屋を思い出しながら、近衛はプラットホームへ足を進める。
 確か、研究所の近くにあったケーキ屋のシュークリームは不評だったはずだ。それなら適当な駅で降りて、別の店を探した方がいいかもしれない……。
 とりとめの無い考えは、聞き慣れない着信音によって中断された。
 すぐ近くで、耳に痛いほどの音がする。電子音特有の騒がしさに、隣に立っていた女性も嫌な顔をした。どうやら音の発生源は自分らしい。
 近衛は失礼、と声をかけてからポケットに手を入れた。
 先程五十嵐から渡されたスマートフォンが光っている。着信を示すアイコンを押すと、五十嵐の声が聞こえた。
 『おい、頼人か?』
 「五十嵐さん? どうして電話を?」
 別れてから数分も経っていない。駅とあづまビルは目と鼻の先だ。
 五十嵐は慌てた様子で告げた。
 『実は今、新しい予知の画像が送られてきた。ヒュプノスの解析が終わったらしい。対象者の情報を、萩浦が集めているところだ』
 「……なんですって?」
 思わず聞き返す。
 丁度乗り込む予定だった列車が、プラットホームに滑り込んできた。近衛は移動する人込みに逆らうように歩き始めた。
 『それで急な話だが、その対象者の救助……というか、とにかく死ぬ予定から救い出して欲しい。今からなら、恐らく間に合う』
 「ちょっと待ってください、そんな急に。そもそも、俺はどこに向かえばいいんです?」
 『それなら駅に迎えが行っているはずだ。南のエレベーターから外に出てみろ』
 五十嵐の指示は的確だった。半信半疑で地上に出た近衛は、目の前の道路からこちらに手を降る人影を見つけた。近くには、鹿屋の髪の色と同じ真っ赤なマツダのアテンザが、ハザードランプを付けて停まっている。
 鹿屋良平は恭しく助手席のドアを開けた。
 「お嬢さん、どちらまで?」
 「俺はお嬢さんじゃない」
 律儀にツッこんだ近衛を乗せて、車は発進した。

 靖国通りを抜けて首都高へと向かう車の中で、近衛は眉根を寄せた。
 「どこに行くつもりだ?鹿屋」
 良平はちっちっと指を振る。
 「やだなぁ、俺のことは気軽にカノって呼んでくれよ。俺もアンタのこと、ライトって呼ぶから」
 「……俺の名前は頼人だが」
 「あだ名だよ、あだ名! ほら、昔の警察ドラマでよくあるじゃん!」
 まるで昔からの親友のように話しかけてくる。どうやら目上目下関係なく接するのが彼の流儀らしい。
 上下関係が絶対の自衛隊で、一体どうやって過ごしていたのか。
 「まぁちょっとドライブしようぜ? 成り行きでも、これから一緒に仕事をするんだからさ」
 どこまで、と聞き返そうとした瞬間、オーディオスペースに取り付けられた画面が点灯し、メールが届いた。
 この数年で、通信技術は更なる発展を遂げていた。東京オリンピック以降に巻き起こった技術革新は世界的なもので、中でもIPv6によるインターネットの広がりはあらゆる分野で見られるようになった。今では、冷蔵庫やテレビのリモコン、果ては炊飯器まで、インターネットに繋がっている。
 車はその最たるものだ。殆どの車はネットに接続され、自動走行するものも少なくない。キーは電子システムで管理され、スピードや走行履歴も随時記録されている。だが、安全性を理由に、自らハンドルを握る者も未だに多い。良平は自分で運転するタイプのようだった。
 「メール開封」
 鹿屋の声を認識して、ディスプレイが切り替わる。
 送信者は萩浦と書かれていた。
 「……新聞記事?」
 それは、酷くぼやけた記事の切り抜きのようだった。灰色の紙面に、黒煙を上げる車の写真が載っている。
 「画像130%拡大」
 荒い画像が拡大され、細部がはっきりと写し出された。
 紙面には『谷上衆議院議員死亡 高速道路を暴走か』という見出しが踊っている。規模の大きい事故のようだ。
 記事の日付を見て、近衛は思わず声を上げた。
 「明日の新聞だと……!?」
 日付は四月十七日、つまり明日の日付になっている。とても作り物には思えないほど精巧な新聞記事だ。
 これが、由岐の予知なのだろうか。
 記事から事故の発生時刻を探す。
 紙面は四月十六日、午後六時過ぎ頃と伝えていた。
 「……なぁ?六時すぎってさ……あと30分くらいじゃね?」
 鹿屋が時計を確認する。現在時刻は午後五時二十八分。フロントガラスと一体化したデジタルクロックは、淡い光で時刻を指し示していた。
 再びディスプレイが点灯し、今度は通話ボタンが表示された。鹿屋の声を待たずに、近衛はボタンを押した。
 『メールは確認したか?』
 五十嵐だ。
 「はい。この議員は今、生きているんですか?」
  『随分と直球な質問だな……まだ無事だ。休日で、別荘に遊びに行っているところらしい』
「センセイは気楽で良いねぇ」
 鹿屋がボヤく。
 近衛は眉根を寄せた。
 「……何故、生きているとわかるんです?」
 『個人宅のガレージから、発車記録を検出させてもらった』
 一般家庭にはあまり普及していなかったが、タクシーやそれなりの地位にある者は、ガレージに発入車記録を残している。出入り口に小さな装置を取り付け、無線通信で車と連動させると、自動でクラウド上に記録されるようになっている。スケジュールや行動管理の一環だが、当然その記録は個人情報として保護されている、はずだった。
 その個人情報を、五十嵐はあっさり手に入れたと告白したのだ。
 「そんなことができるんですか」
 『もちろん。萩浦の手にかかればこの程度のことは造作もない』
 「萩浦……先程の彼が?」
 あのオドオドとした態度を思いだし、近衛は驚く。見た目からは想像も出来ないほど有能な人材らしい。
 五十嵐は悪怯れる様子もなく続けた。
 『あぁ。言い忘れてたが、お前たちに渡したスマートフォンにも、GPSと連動しているアプリを入れているからな。消すなよ?すぐにバレるぞ』
 軽い調子で言われても、監視されていることに代わりはない。近衛はため息を堪えて額に手を当てた。
 「それでさっき、俺が駅にいるとわかったんですか……」
 恐らく、GPSだけでなくビーコンも使用しているのだろう。地下にいても行動が筒抜けだ。
 五十嵐が喉の奥で笑った。
 『そんなに悲観するな。プライベートは保証するし、第一、本当に監視しようと思っていたらお前たちにこの事を話さなかった。それに……いや、それは後でゆっくり話そう。それより、さっきも言った通り、常磐自動車道に向かってくれ。利根川付近だ』
 事前に五十嵐から話を聞いていたのか、鹿屋が頷いた。
 「了解。あと30分で着けるかどうかわかんねーけど、とりあえずやってみる」
 車の数がわずかに増え始めてた。それでなくとも首都高の交通量は多い。
 頼んだぞ、と五十嵐が通話を切った。

 近衛は深く息を吐き出すと、改めて記事を眺めた。
 あと30分で事故が起こる等とは信じられないが、確かめるためにはその場へ行ってみるしかない。
 ふと、ディスプレイに別のメールが届いていることに気がついた。差出人は萩浦になっている。
 メールを開くと、谷上衆議院議員の詳しいプロフィールが画面一杯に表示された。
 「谷上耕太郎。62歳。衆議院議員。当選回数、家族構成、今日のスケジュール……」
 一々読み上げる気も起こらなかったが、とてつもない情報量だ。別れてから数十分でプロフィール、個人的な写真、更に議員の車庫情報まで調べあげている。
「……萩浦律、だったな。ハッカーか、恐ろしいな」
 思わず漏らすと、鹿屋が笑った。
 「はは。子ウサギみたいなにーちゃんだったよな! なんかぷるぷるしてたし!」
 「だが、メディアに露出の多い議員とは言え、あの短時間でここまで情報を集めてくるとは。ただの子ウサギじゃなさそうだ」
 五十嵐がどんなツテを頼っているのかわからないが、不思議な人材ばかりだ。
 近衛は改めて、少年のような鹿屋の横顔を見た。彼も萩浦同様、得体が知れない。
 「……急に黙って何だよ? あ、俺はそっちの気は無いからな! 先に言っておく!」
 不要な情報が一つ増えたところで、近衛はため息をついた。
 「いや。どうして五十嵐さんの話を受けたのかと思って」
 「俺? そりゃー、面白そうに決まってるからな! それにアンタと同じ無職だし、仕事は欲しい」
 「自衛隊員じゃなかったのか?」
 五十嵐から渡された用紙の内容を思い出し、近衛は怪訝な顔をする。鹿屋は笑った。
 「今はまだ、って感じ? どうせ辞めようと思ってたんだ」
 「どうして」
 「どうしてって……」
 沈黙が落ちる。暫くの間、車内には駆動音だけが響いた。
 「……俺、ちょっと前までアフリカにいたんだよ」
 再び話始めた鹿屋は、先程とはうって変わって静かに切り出した。
 「平和維持活動ってやつでね。アンタも知っての通り、アフリカはもうずっと前からぐちゃぐちゃだ。ちょっと良くなってもすぐ元通り、紛争が起こる。資源を巡って他所の国が嘴を突っ込んでくる……そんな状況で発展もクソもないのに、この国は国際協力って名の元に何か活動しなくちゃならない。その泥を被ってるのが自衛隊さ」
 国連の要請を受けて、日本は数十年前から自衛隊を派遣し続けている。当初は世論もそれなりに動きがあったが、今では形骸化していた。
 「まぁ、武力行使が禁じられてるからって、何もしない訳にもいかないし。後方支援、安全地帯での警備、地元民とのあれこれ……雑務なら色々あったんだ。だからその日の警護も形だけだと思ってた。いつもと同じようにのんびりしてたんだ」
 最初は緊迫感のあった業務も、数をこなせば慣れてしまう。
 それは狙撃兵として派遣されていた鹿屋も同じことだった。派遣された中でも年若い鹿屋は、アフリカの気候や風土にもすぐに慣れた。
 紛争地帯ということを忘れたことはなかったが、雰囲気はどこか穏やかだった。
 あの日、一発の銃声が轟くまでは。
 「……地元の代表者が集まる会合があったんだ。警備はそれなりに厳重だった。俺は狙撃兵だったから、少し離れたところから警戒していた」
 警備と言っても、既に他国軍が警戒している地域だ。特に問題もなく、鹿屋は一人で位置についていた。観測手はいなかった。
 会合が始まった瞬間、騒ぎは起こった。
 地域の重要人物と見なされていた代表が一人、狙撃されたのだ。
 たった一発の弾丸が、厳重な警備をすり抜けて、命を奪った。
 「俺はその時、会合があった建物の屋上にいた。分かりやすい場所で、警戒しているってアピールも含めてさ……だけど、そいつは撃った。目的の人物だけを正確に殺すのはプロの仕事だ。俺はその瞬間、ただの置物だったんだ」
 対象が撃たれたという情報は、無線を通して鹿屋の耳に届いた。それとほとんど同時に、鹿屋は相手の狙撃手を見つけた。
 前を流れる小さな川のほとり。巨木に隠れるように建っている空き家のベランダに、わずかな光が見えた。スコープの反射光だった。
 そして鹿屋は、その光に照準を合わせた。
 「自分がその時何を考えてたのか、俺にも思い出せない。草木で隠れたベランダは、狙撃するには格好の場所だったよ。手前にある川のせいで、あの建物に近づくのも時間がかかる。だから犯人に逃げられる。そんな事を考えてた気がする」
 鹿屋は撃った。狙撃犯にむけてただ一人、反撃とも言える狙撃を行った。
 それは生まれて初めての、『人を殺すための行動』だった。
 「殺した、と思ったんだ」
 鹿屋はハンドルを強く握りしめ、吐き出すように言った。
 「でも、死体は出てこなかった」
 日本に帰国した鹿屋を待ち受けていたのは、世論の激しいバッシングだった。
 警備に失敗し、更に犯人に向けて発砲まで行っておきながら捕り逃がした──憲法の在り方から自衛隊の存在意義まで、一連の事件は世論を再び揺り動かした。当然、鹿屋の処遇も騒がれたが、正しい自衛権の行使だったと認められた。あくまでも法律上では、だったが。
 「そんなのはどうでも良かった。俺はすぐに身動きが取れなくなったんだ。世間が収まるまで、俺はどこにも行けなくなった。色んな意見があったけど、全部嫌になったんだよ……」
 力無く笑う横顔は、始めてみた時の印象とは違い、随分と歳をとっているように見えた。これが鹿屋良平という男の、本当の姿なのかも知れない。
 近衛は小さく息を吐いた。
 「覚えている。半年ほど前の事件だな」
 「おっ、光栄だね。まぁ、俺はテレビなんかには映らなかったけど」
 その後の扱いは、予想以上に悪かった。
 各方面からの圧力で、メディアは早々に次の話題へと移っていった。世論は地方の災害対策へとスライドしていったが、自衛隊は鹿屋の処遇を決めかねていた。
 もちろん、反撃する行為そのものが悪いわけではない。しかし……と歯にものが詰まったような話し方をされる度に、鹿屋の心は冷めていく。
 自分が仕出かしたことを、良いとも悪いとも言わない。誰もが鹿屋の意志など必要としていないかのように感じられた。
 そして、鹿屋は自衛隊を辞めた。
 「……ってのが俺の考えだったんだけど。時期が悪いとかなんとかで、未だに引き留められてるんだよね」
 テレビに出られてペラペラ話されても困ると思われたのだろう。辞意は徹底的に無視され、宥められ、時には諭されて、鹿屋は渋々留まった。
 しかし、一度辞めると決めた職場にいることほど、精神的に辛いものは無い。昔は従順に命令を遂行していた鹿屋は、徐々に反抗的になっていった。
 「腐っていく俺に手を焼いていたんだよ、上は。だからこの話を持ちかけられた。気分転換だとかなんとか言って」
 鹿屋が笑う。
「でも、こんなに刺激的な仕事だとは思わなかったな」
 近衛は沈黙していた。
 ただの物好きな人間かと思っていたが、どうやら違うようだ。集められた人材は、それなりの理由があってのことなのだろう。
 再び鹿屋が口を開いた。
 「……で、俺の話はこんなものだけど。ところでアンタはどうしてこの話を受けたんだよ。俺ばっかり話させてズルいぞ。そうだな、例えばアンタの妹さんのこともっと詳しく……」
 鹿屋の口許がだらしなく緩んでいる。
 「半殺しの先に行きたいらしいな。良いだろう」
 「わー!? 冗談、冗談ですってばぁ!!」
 ドスの利いた近衛の声に、鹿屋が悲鳴を上げた。

 車は、少しずつ暮れ始めた首都高速を走り続ける。雨は止み、雲が空に鱗模様を描いて広がっていた。
 時刻は午後五時五十分を回ったところだった。

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