はぁ、と大きくため息をつくと、谷上耕太郎は後部座席を見た。
 「どうかされましたか、先生」
 穏やかな声でハンドルを握る園崎昌夫は、バックミラーで後ろを覗く。谷上は ウェットティッシュを取り出し、座席を拭いていた。
 「まったく、嫌になるよ。孝太の奴にこの車を数日貸しただけでこれだ」
 日に焼けた岩のような顔が歪んでいる。
 「何か汚れていましたか」
 「あぁ。わからんがベタベタする。酒でもこぼしたんだろう。まったく!」
 「それはそれは……申し訳ありません、私がもっと見ておくべきでした」
 谷上とは対照的に、園崎はひょろりとしていて色白だ。柔和な態度の持ち主で、谷上ですらこの運転手が激昂した姿を見たことが無かった。
 「いやぁ、君のせいじゃないさ。ウチの次男坊が悪い」
 「しかし車内でお酒とは……まさか飲酒運転では」
 園崎の顔が曇る。それは谷上の、議員としての立場を心配したというより、純粋に谷上の息子の健康を心配している顔だった。
 谷上はふん、と鼻を鳴らして座席に沈みこんだ。
 「あいつも流石にそこまで馬鹿じゃないだろう。しかしこんなことが続くなら、当面車の使用は禁止だな……」
 谷上孝太は典型的なお坊ちゃんに育っていた。地道に努力するタイプの兄とは違い、どこか世間を舐めている節がある。
 孝太は数日前に単独事故を起こし、車を修理に出していた。その間は谷上が私用の車を貸していた。だが、古臭い車と文句を言われ、その上シートを汚されるとは思いもしなかった。
 孝太の態度を思いだし、むっとしている谷上に向かって、園崎は穏やかに笑いかけた。
 「いやぁ、そんなものですよ。私の息子なんてもっと生意気でした」
 谷上と付き合いの長い園崎にとって、谷上の息子達は親戚のようなものだ。いつまで経っても子供のように思えてしまう。
 谷上は目を瞑りながら答えた。
 「あいつには、もう少し君を見習ってもらわんといかんな」
 「私なんてとてもとても……恐縮です」
 国会ではその威圧感から”鬼瓦”と揶揄される谷上も、この柳のような運転手の前では怒る気力を無くしてしまう。園崎には、他人の気持ちを宥める不思議な雰囲気があった。

 谷上のクラウンは一定の速度を保ちながら、首都高速6号線を進んでいた。
 車には最新式の装備が搭載されている。クラウンは高速道路に入ると自動運転に切り替わった。
 AIが普及し、車の運転は格段に精度が増した。問題となっていた高齢者の運転問題に、いち早く切り込んだのがAIによる自動運転だ。特にブレーキはAIがアシストしたほうが良いという研究結果が出ており、一定の年齢を超えた者は自動ブレーキ搭載車に乗るのが普通になった。
 谷上の車は、ブレーキを含めたほぼ全ての運転を自動化させていた。センターコンソールに内臓されたパソコンが、車載カメラから運転技術まで管理している。一流の走りをプログラミングされたAIが、運転そのものを代わりに行っていた。
 園崎が運転席に座るのは、自動運転が定められた区間でしか行ってはいけないと法律で定められているからだ。しかし園崎自身はAIの運転をあまり好きになれなかった。
 「便利なものなんですけどねぇ。私はどうも古い人間でして」
 園崎がバックミラーに視線を向けると、谷上は喉を震わせて笑った。
 「古い、新しいは関係無いだろう。私もあまり好きじゃないし、誤作動も怖いからな」
 「仰る通りです」
 穏やかな雰囲気のまま、車は谷上の別荘へと向かっていた。トランクにはゴルフ用具一式が積まれている。
 小さな綻びが、すぐ足元に転がっていることなど気づかない。
 二人の話題は、これから過ごす休日のことに移っていった。


  /タイムリミットまで、あと4分40秒/


 周囲の車に目を凝らす。
 近衛は素早くナンバーを読み、該当する車を探した。
 『クラウンのマジェスタ。色は白。ナンバーは……』
 萩浦から送られてくる情報は的確だ。谷上議員は運転手だけを連れて、別荘へ遊びに行くらしい。
 「何て言うか、議員くらいになるとそれくらいしかやることが無いのかねぇ」
 派手な遊びを想像していたらしい鹿屋が、辺りを見回しながら呟く。幸いなことに周囲の車は少ない。
 近衛はディスプレイの通話ボタンを押した。
 ほとんど間を置かずして、五十嵐の電話に繋がった。
 『なんだ?』
 「萩浦に該当車を空から探すよう言ってください。こちらからは見当たらない」
 『先程からやっているが、間に合いそうもない。萩浦、できそうか?』
 どこから音声を拾っているのか、ディスプレイに文字が表示され始めた。メールではなくチャットを起動させたようだ。
 『色々探してるけど、時間がかかりそうです。ごめんなさい』
 ご丁寧なことに手を合わせた絵文字まで添えられている。鹿屋が苦笑いしながら言った。
 「いやいや……空から探すってどういう意味だよ? というか、さっきからやってるってなんだよ。まさか衛星にハッキングかけてるんじゃないよな? 映画の見すぎだぞ?」
 沈黙があった。
 笑っていた鹿屋の顔が、徐々に引き釣っていく。
 「……マジで言ってんの、それ……」
 しばらく間があり、チャットにスタンプ流れた。『そうです』という文字とネコのイラストが描かれていた。
 「……そっかぁ……」
 どこか遠い目をする鹿屋である。
 ふざけたやり取りの間にも、近衛は周囲に目を光らせていた。
 見通しのいい道路で路面もそこまで濡れていない。
 と。
 「見つけたぞ! あれだ!」
 一台の車が前方八百メートルほど先を走っている。白のクラウンだ。
 鹿屋がギアを入れて加速する。瞬く間に距離を詰めると、その右側に車をつけた。
 並走する車内から横顔を確認する。
 窓ガラスにスモークが貼られているせいで後部座席は確認できなかったが、運転手の顔に覚えがあった。
 「間違いない。園崎昌夫だ」
 「ってことは、後ろに乗ってるのが議員の先生ってことか」
 鹿屋が快活に結論づける。
 「だけど、なんか普通だな。本当に予知なんて起こるのか?」
 どこか楽しそうなのは、予知を信じていないからに違いない。しかしそれは近衛も同じ気持ちだった。
 白いクラウンは問題なく走り続けている。周りに他の車も少なく、見通しも良い。
 本当にあの新聞記事のように事故が起こるのだろうか?
 念のためにもう少し観察しようと目を細めた時、"ソレ"は起こった。

 何かが身体を通りすぎたような感覚。
 透明で得体の知れない水の膜を潜ったような。

 近衛は、隣の車から視線を逸らして、辺りを見回した。
 今のは、と言いかけたその時、鹿屋のほうから緊張した声が上がった。
 「あの運転手、何か変だ……!」
 慌てて左を走るクラウンに目をやると、運転手が両肩をしきりに上下させているのが見えた。胸を掴んで苦しんでいる。
 発作だ。
 しかも、心臓の。
 「クソッ!」
 近衛は窓を下げて、出来る限り叫んだ。
 「その車を停めろ!事故を起こすぞ!」


 車内はどこまでも静かで快適だった。
 谷上は軽く手を組み、目を閉じていた。目的地までまだかなり時間がある。
 ふと視線を感じて、谷上は目を開けた。園崎がこちらを見ているのかと思ったが、違うようだ。
 視線の元を探して辺りを見回すと、右を走る車から男が一人、こちらを覗きこむように眺めていた。
 ──なんだあいつは。記者か?
 気分が悪い、と谷上は一気に不機嫌になる。何よりあの鋭い目付きが気に食わない。まるで猛禽を思わせる顔つきだ。
 撮るなら勝手に撮れ。俺は何も悪いことなんてしていない。
 嫌悪感を露にしながらシートに沈みこもうとした時、谷上は異変に気がついた。
 運転席から唸り声がする。
 「……園崎?」
 返事は無い。
 代わりに、一際大きい唸り声が聞こえた。
 「おい!園崎! しっかりしろ!」
 後部座席から身を乗り出し、肩を揺さぶる。しかしそれでも園崎は振り返らなかった。それどころか、胸を押さえてハンドルに突っ伏しそうになっている。
 「園ざ──」
 もう一度呼びかけようとして、不意に誰かの声に気づいた。園崎ではない。聞いたことがない声だ。
 首を巡らせると、先ほどこちらを覗いていた男が窓を開けて叫んでいるのが見えた。
 「その車を止めろ! 事故を起こすぞ!」
 あの鋭い目付きをした男だ。背広を着ているが、どう見ても堅気の人間ではない。
 しかし政界に長く身を置く谷上も見たことがない顔だった。
 「何をしている! 早くブレーキを!」
 再び男が叫び、谷上ははっと我に帰った。
 園崎の肩越しにフロントパネルを見て、わずかに胸を撫で下ろす。
 そういえば車は自動運転に切り替わっていたのだ。
 念のために園崎をハンドルから外し、谷上は深く息をついた。とりあえずこれで大丈夫だ。
 窓を開け、並走する派手なアテンザに向かって怒鳴り付ける。
 「自動運転になっている! 別に事故なんぞ起こさん!」
 男は一瞬、不思議そうな顔をして怯んだ。
 ふん、と谷上は鼻を鳴らす。
 馬鹿な奴だ。自動運転は目的地近くのインターチェンジまで設定してある。そこまでに救急車を呼び、園崎を助けなければ……。
 慌てて自身のスマートフォンを取り出し、谷上は119を押し始めた。
 ふと外から声が聞こえることに気づいて再び顔を上げると、あの男がまだ何か叫んでいるのが見えた。
 何なんだ、一体!
 焦りと苛立ちを覚えた谷上が窓を開け、もう一度怒鳴りつけてやろうとした瞬間、男が何を言っているのか聞こえた。
 「スピードが上がっている!!」
 谷上は怪訝な顔をした。
 咄嗟にフロントパネルの計器を見る。車は時速78㎞で走行していた。
 確かこの車は、高速道路上で時速75㎞で走るよう設定されていたはずだ。速度が設定をわずかに上回っている。
 自動運転は解除されていない。にも関わらず、速度は谷上の目の前で時速79㎞に上がった。
 次の瞬間、車体が不自然に揺れ、更にスピードを上げて走り始める。
 谷上は悲鳴を上げ、後部座席に転がり込んだ。

 「マズい……!」
 端から見れば単純にスピードを上げただけにしか見えないが、クラウンの加速は異常だった。
 何か見えない手に引かれているようですらある。
 追い越す勢いで走り始めたクラウンに、鹿屋が叫んだ。
 「おい、何だよありゃ……!」
 「わからん。だが何かがおかしい。車は自動運転になっていたが」
 走行途中でも自動運転を切ることはできる。だが谷上が確認した時点ではオンになっていはずだ。例え運転手が手を離しても事故は起こらない。
 しかし今やどう見ても、クラウンは暴走していた。


  /タイムリミットまで、残り50秒/


 「とにかく車を横につけてくれ。様子が知りたい」
 「了解!」
 アテンザが唸りを上げてクラウンの右へつける。幸いにしてクラウンは一定の速度に戻りつつあった。
 しかし速度は依然として80㎞を超えている。
 「……なんだ、あの表示は」
 近衛は目を細めて計器を見た。
 ディスプレイに、大きく赤い文字で『error』と表示されている。
 谷上は後部座席に座ったまま目を見開いていた。
 「車を止めろ!」
 再三叫ぶが、反応が無い。どうやら一時的に失神しているらしい。
 運転手の園崎はシートにぐったりともたれ掛かっている。口の端から泡を吹いているのが見えた。
 一刻の猶予も無い。車は今、完全にAIのみの自動走行をしている。
 一瞬の躊躇いの後、近衛はディスプレイに声をかけた。
 「……萩浦。あの車を止めれないか」
 『さっきからやってますけど、応答が無いんです』
 返事が即座に表示される。どうやら裏でかなり手を焼いているようだ。近衛は続けて聞いた。
 「何か動かせる部分は。どこかにアクセス出来ないか」
 『ドアならなんとか開けれます』
 「よし、右後部座席のドアを開けてくれ」
 「車のドアなんて開けてどうするんだよ、走行中だぜ?」
 不安そうに聞く鹿屋に、近衛は言ってのけた。
 「俺が車に乗り移る」
 唖然とした間があった。
 「ばっ……! お前、マジで映画の見すぎだからな!?落ち着けよ、他に方法が……」
 近衛は背広の上着を脱ぎながら淡々と告げる。
 「他の方法を考えている間に、時間がくる」
 「時間?」
 「1分後の死だ」
 丁度その時、クラウンのドアが開いた。自動ドアらしく、油圧で開くタイプのようだ。
 車の自動ドアは、走行時の危険性を考慮して、幾重にもAIによるロックがかかっている。萩浦はそれをハッキングした。
 クラウンのドアが開くのと同時に、近衛が助手席のドアを開ける。強い風が吹き込み、気を抜くとドアが閉まりそうだ。
 あぁ、もう!と悲鳴を上げる鹿屋に向かって、近衛は叫んだ。
 「車をできるだけ寄せろ!」
 「やってるよ!!」
 中央を走るクラウンのすぐ右を、鹿屋の車が並走する。速度は依然として80㎞を超えていた。
 どこかがガリガリと擦れる音がした。同時に、近衛の目の前にクラウンの後部ドアが見えた。
 距離にして、1メートル弱。
 意を決してクラウンのドアに手をかける。すぐ下では、灰色の道路が凄まじい勢いで流れていく。
 緩やかなカーブで車同士が最も接近した瞬間、近衛はクラウンに飛び移った。


  /タイムリミットまで、残り35秒/

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