それはあまりにも突然のことだった。
 狗凪も烏天狗たちも咄嗟に動けず、呆然と異様な光景を凝視する。
 黒い風の正体は獣だった。黒い上半身は狼のそれと酷似していたが、下半身を無理やり二足歩行にしたような姿をしていた。
 異形の獣がちらりと狗凪を振り返る。榛色の瞳に、狗凪は思い当たるものがあった。
 「ひょっとして……アレク、あんたなのか!」
 応えるよりも早く、狼男──アレクが食らいついていた烏天狗を投げ捨てた。烏天狗の傷は思ったよりも浅く、血はそれほど出ていないように見えたが、首を締め付けられていたのか息苦しそうに喘いでいる。
 仲間の姿に我を取り戻した他の烏天狗たちが、緋色の錫杖を構えた。
 「なんだ貴様……! この犬天狗の仲間か!」
 狼男は答えず、呆れたようにフン、と鼻を鳴らす。
 「……! 愚弄する気か!」
 おのれ、と烏天狗が怒気を含ませ翼を広げる。そのまま一気に空へと飛び上がった。
 高所からの強襲は、烏天狗たちの得意の戦法だ。霊力を帯びた錫杖で相手の動きを止め、鋭い翼で切り裂く。これが集団の攻撃ともなれば、大妖ですらひとたまりもなかった。
 もちろん、狗凪にもアレクにも空を翔ぶ力は無い。顔色を失う狗凪を他所に、烏天狗たちは役場の屋上付近まで上昇した。

 その時唐突に、屋上から『腕』が突き出し、一匹の烏天狗の頭を鷲掴みにした。

 ほとんど同時に、残りの三匹の烏天狗が見えない『何か』に撃ち落とされる。痙攣し、瞬間的に動きを止めた烏天狗の身体が、地面に次々激突していった。
 頭を何者かに掴まれている烏天狗は、何が起こっているのかわからないと言った風で翼をばたつかせる。
 不意に、聞き覚えのある声が、屋上から響いた。
 「俺のダチに……用事が……あるんならよォ……」
 遠目からもわかるほど、烏天狗が怯え、苦しみ始めた。どうやら頭を掴んでいる腕に相当の力が込められているらしく、烏天狗は悲鳴を上げた。
 だが、声は悲鳴をまるきり無視して続ける。
 「最初に……俺を通すのが……筋ってモンだよ……なあああああああ!!!???」
 屋上から、満面の笑みで──もちろん目は笑っていなかったが──閃が告げた。
 空中のあちこちで、恐ろしいまでの放電が起こっている。三匹の烏天狗を撃ち落としたのも、この規格外の雷に違いない。
 閃がこれほど突き抜けて怒り狂っている姿を、狗凪は見たことがなかった。

 「オイ! なぁ、なんとか言えよカラスさんよぉ!!! なんだよ、舌でも引っこ抜かれてんのかぁ!? 」
 まるで鞭のようにいかづちを走らせ、閃が狂ったように笑う。その光景を呆然と見上げていた狗凪は、そこで漸く我に返った。
 駄目だ。あのままでは殺してしまう。
 「止めろ! 閃!!」
 狗凪があらん限りの声で叫ぶと、笑みを浮かべたままの閃が、ちらりと視線を寄越した。その目は『邪魔をするな』と雄弁に語っている。
 狗凪は大きく首を横に振った。
 「駄目だ!! ここで軽率に動けば、俺達も危険に晒される!だから手を離せ……!」
 一瞬の後、閃から笑顔が消え、代わりに誰がどう見ても不機嫌な表情を浮かべた。
 「……あぁ? 誰に意見してんだよ、狗凪」
 だが怯むわけにはいかなかった。ここで怯めば、閃は烏天狗たちを容赦なく殺してしまうだろう。同胞意識の強い烏天狗たちが仲間の死を知れば、里はたちどころに攻撃されてしまう……なんとしてでも、争いだけは避けなければいけない。
 狗凪は唇を噛み締め、閃を見上げた。
 「……頼む。でないと、取り返しのつかないことになる」
 声が上擦っているのが、自分でもわかる。だが、どれほど情けない姿を晒そうとも、どこかに逃げ隠れするわけにはいかなかった。

 閃は無表情に見下ろすと、手に掴んでいた烏天狗の頭を無造作に放りやった。
 烏天狗は役場の植木に落ちて、ぴくりとも動かない。……人外故に死ぬほどではないだろうが、あの閃の雷を浴びて、まともに動ける妖かしはいないだろう。現に五匹いた烏天狗たちは戦意を喪失し、怯えきっていた。
 閃は役場の屋上から『飛び降りる』と、烏天狗に塵ほども意識を向けず、まっすぐに狗凪のほうへ歩いてくる。逃げ出したい気持ちを抑えこみ、狗凪は目を伏せた。
 「……ありがとう、閃。その、命令がしたかったわけじゃなくて……」
 言いかけた狗凪の肩を強めに叩きながら、閃がいつもの調子で笑った。
 「お前も大変だよなぁ? 狗凪。おい、そっちは大丈夫なのかよ」
 振り返ると、人の姿に戻ったアレクに支えられて、桐寿が立っていた。多少の切り傷や打撲があるようだが、特に支障はなさそうだ。申し訳無さそうな表情で、桐寿が頬を掻いた。
 「うん……あの、なんかやられっぱなしでごめん。アレクのおっさんも、助けてくれてありがと」
 「いいや。俺一人では何もできなかったさ」
 アレクは器用に肩を竦めて、榛色の瞳を細めた。
 「──で、彼らをどうするつもりだい?」
 彼ら、と総称された烏天狗たちは、びくりと身を震わせると一斉に首を横に振った。それを見て、獲物を前にした猫の如き閃に、狗凪は先手を打った。
 「閃。わかってると思うけど、おもちゃじゃないからな……」
 「なんだよ! さっきだってちゃんと手加減してやっただろ!? それだとまるで俺が極悪人みたいに聞こえるじゃねーか!」
 えっ、と小さく呟いたのは桐寿だ。直後にしまった、と口を手で押さえたが、最早手遅れだった。ニヤニヤというよりはむしろ純粋無垢な笑顔を浮かべて、閃は立っているのがやっとである桐寿の肩に腕を回した。
 少しずつ腕に力が入っているように見えるのは、気のせいだろうか?
 「きりひさくぅーん、何か言うことでもあったかなぁー?」
 「ひいぃい!? じょ、冗談です!やめて!首がちょっとずつ絞まっ……!」
 青ざめる桐寿、それを見て更に怯える烏天狗、喜色満面の閃……狗凪はどっと押し寄せた頭痛でこめかみをさすりながら、さてこれをどうしたものかと思案し始めた。

 その時突如、一際大きな羽ばたきが聞こえたかと思うと、晴れていた空がやにわに翳った。

 「……どうしたことだ、これは」
 銀色の鈴を思わせる、落ち着いた声色が響く。
 ぎょっとして空を見上げた狗凪は、そこに巨大な黒い翼を認めて息を呑んだ。
 鴉の濡れ羽色と呼ぶにふさわしいその翼を操り、新たな烏天狗が広場の前に音もなく着地する。
 見たことがある顔だった。狗凪はその烏天狗のことをよく覚えていた。
 「烏月……」
 呆然と呼んだ名に、銀髪の烏天狗が反応する。烏月は目を細め、狗凪を真正面から見据えた。
 「どこかで見たツラだな。俺を知っているのか」
 知っているも何も、お前が俺の故郷を奪ったんだ……ずっと胸の内にわだかまっていた叫びは、しかし喉につかえて言葉にならなかった。
 顔面蒼白となり立ち尽くす狗凪に変わって、閃とアレクが一歩前へと歩み出る。ここに至っても、閃のふてぶてしさは変わらなかった。
 「よぉ、オッサン! そこに転がってるテメーの部下が、俺たちと遊びたそうにしてたからよ、お望み通り遊んでやったぜ?」
 凶悪を絵に描いたような瞳で、ケッケッケと笑う閃に、烏天狗たちは顔を赤くして、頭領である烏月を見上げた。
 「う、烏月様! 申し訳ありません……!」
 「ご慈悲を頂ければ、今度こそこのようなせんの輩に遅れはとりません!」
 烏月は、詰め寄らんばかりの勢いでまくし立てる烏天狗たちを無表情に見つめ、それから狗凪に視線を向けた。
 「なるほど。俺の部下が無礼を働いたようだ。非礼を詫びよう」
 あっさりと。
 北の烏天狗の頭領である烏月は頭を下げた。思わぬ対応に狗凪は拍子抜けし、部下である烏天狗たちも目を白黒させている。
 しかし、次に頭を上げた烏月の目を見て、狗凪は小さく息を飲んだ。
 「──だが、」
 烏月の瞳は、凍えるようなすみれいろをしていた。妖かしたちの間では、その目に見つめられた動物は動きがおかしくなり、やがて理由もなく倒れると、まことしやかに囁かれていた。
 「我ら烏天狗は物見遊山に来たのではない。たびの異変について、他の妖かしの長と意見を交わす為、遠く北の大地より馳せ参じたのだ。これは烏天狗一族のみならず、全ての妖かしの存続にかかる事態が故、早急に判断を下す必要がある……こちらの里の長は、どちらにおわす?」
 言い方こそ丁寧だが、烏月の言葉には年経た者特有の冷徹さと凄みが感じられた。
 しかし、だからと言って里の場所を明かすわけにはいかない。

 その時、アレクの肩を借りて立っていた桐寿が怒鳴った。
 「話し合いなんて嘘だ! 大体お前らが俺を襲ったのだって、どうせ一緒だからだろ!」
 黒いハリネズミの針のような黒髪を逆立てて、普段温厚な桐寿が、烏天狗たちを睨みつける。烏月は意外そうに桐寿を見た。
 「一緒……とは?」
 「そこの、アンタの部下が言ってたよ……『どうせここも灰燼に帰すんだ。お前みたいな雑魚妖怪の一匹や二匹、今ここで殺したって一緒だ』ってな!!」
 怒りで声を震わせる桐寿を、烏月はどこまでも無表情に眺めていた。そこに何の感情も見い出せず、桐寿は一瞬気圧されたように口を噤んだ。
 「なるほど。我々が交渉もせずにいきなり争いを仕掛けると。そう、言いたいのだな」
 「……状況が状況だ。そう思われても仕方がないだろう」
 狗凪は怒りと恐怖で混乱する自分を鎮める為、なるべくゆっくりと唇を動かした。ぼんやりしていると、烏月の気迫に飲まれてしまいそうだ。
 「それに、北の烏天狗の所業なら、嫌というほど聞き及んでいる。あんたたちに故郷を奪われた妖怪がどれだけいるか、覚えていないだろう?」
 「それもそうだ……あぁ、そういえば随分前に狗賓の一族を追い払ったことがあったが、そうか、なるほどな」
 烏月の瞳がすっ、と細められる。何か合点がいったように頷き、烏月は初めて、薄く笑った。
 「では聞こう。若き狗賓よ。我々が本当にこの土地を襲うとするなら、どうする?」

 突然、桐寿が空を見上げて、小さく息を飲む。つられて上を見ると、旋回する黒い無数の影が見えた。
 烏天狗の群れが、天を覆い尽くさんばかりに飛んでいる。
 音もなく滑空する烏天狗たちを見上げて、狗凪は唖然とした。青空を背景に、黒い切り取り線のような翼がいくつも舞い飛びながら、烏月の指示を待っている。狗凪にとっては悪夢のような光景だった。
 「もう一度聞こう、狗賓。我らが里を襲うと言えば、お前たちはどうする」
 「……それは、こちらの出方次第でどうにでもなるということか?」
 「有り体に言ってしまえばそうだな。我々が侵略者となるか、それとも話し合いの一員となるか……それはお前にかかっている」
 鴉のくちばしを模した面の下で、烏月が笑っているのがわかる。明らかにこの状況を楽しんでいるのだろう。

 だが逆に、狗凪は冷静さを取り戻しかけていた。
 恐怖と怒りはとっくに臨界点を超え、そのことが本来の性格を蘇らせていた。臆病さはどこかへ消え去り、次に何をするべきか、はっきりと見える。
 人間の言葉を借りるのなら──〝吹っ切れて〟いた。

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