人間たちの畑や倉庫のほとんどは開けられ、中を荒らされていた。また、どこからか漏れだしたガスや化学薬品が、その土地一体を汚染してしまうことも多々あった。
 「火事が起きていないのが奇跡だな」
 狗凪は送電用の鉄塔の上から町を眺めて、眉根を寄せた。
 大規模な火災こそ起こっていないものの、町の様子は惨憺たる有様だった。管理していた人間が消え去ったのだから当然だが、草木に侵食された町は不気味に静まり返り、あらゆるものを拒絶しているように広がっていた。
 なぜこんなにも暑いのか。
 狗凪は空を仰いで、また渋い顔を作る。
 この異常とも言える暑さと異変……空気の変化に敏感な獣や妖かしたちは、この夏がいつもの夏ではないと感じ取っている。しかし原因も、これといった被害も出ていないのであっては、対処のしようも無かった。
 ふと、先ほど桐寿が言っていた『尖った顔の妖怪』を思い出す。この辺りで見かけない顔ならば、他所の土地から流れてきたに違いない。
 自分たちやアレクのように、ただ流れ着いただけの妖かしなら良い。しかし、所謂鼻つまみ者が流れ着き、里を荒らすこともあった。
 不安定になっているのは、狗凪の里だけでは無いのだろう。これからどうなるのか見当もつかないのであっては、玄亥の心痛も当然と言えた。
 狗凪は太陽光に目を細めながら、もう引き上げようかと顔を巡らせた。めぼしい物もなく、町はいつもの通り静まっている。

 ──ふと、視界の隅に、見慣れぬ黒い塊のようなものがちらりと映った。
 
 一瞬だけ見えた存在の異様さに、狗凪はしばらく動きを止めてその方角を見つめた。だが建物の影に隠れて姿を見ることはできない。
 何か黒い布のような、ひらひらとしたものが地上に降りたようだった。
 短い逡巡の後、狗凪は鉄塔から勢い良く飛び降りた。
 胸騒ぎがする。あの方向には確か、桐寿がいたはずだ。
 「……そういえば、役場に行くと言っていたな」 
 狗凪は元の山犬の姿に戻ると、直射日光に熱された道の上を疾走し始めた。

 
*****


 誰かと言い争う、聞き覚えのある声。それに応えて嘲笑する声。そして、鳥というには大きすぎる羽ばたき。
 狗凪は、役場前の広場で足を止めた。
 漆黒の巨大な翼を持つ妖かしたちが、何かを取り囲んでいる。黒い翼、黒い修験衣装に赤い錫杖を持つ異形の妖かし……からすてんたちだ。
 数匹の烏天狗が、狗凪の存在に気づかないまま、中心の何かを思い切り蹴りあげる。その瞬間、聞き慣れた悲鳴が辺りに木霊した。
 「痛って……!」
 ぎょっ、と身を竦め、狗凪は思わず声を荒げた。
 「おい! お前ら、何やってるんだ!!」

 烏天狗達がゆっくりと輪をほどき、狗凪のほうを振り返った。
 口元には烏天狗達の証とも言える、黒塗りに朱色の紋様が入った、嘴の仮面をつけている。目は一様に髪に隠され、こちらから窺い知ることはできないが、冷ややかな目をしていることは容易に想像できた。
 予想通り、輪の中央でうつ伏せに倒れているのは桐寿だった。起き上がろうといては、小さくむせている。
 「なんだ、お前は」
 その光景に呆然と立ち尽くしていた狗凪に、烏天狗の一匹が言い放つ。
 人の姿に戻っていた狗凪は、首を横に振りながらもう一度同じ言葉を繰り返した。
 「お前ら、そいつに何をしてるんだと聞いてるんだ」
 「……あぁ?」
 気だるげに、ひとりの烏天狗が嗤った。それに合わせて、他の烏天狗たちも陰気に嗤う。総勢五匹の烏天狗はほとんど同じ姿で、判別がつかなかった。
 「何を、だと? 大した問題じゃない。邪魔な妖怪を排除していただけだ」
 恐れていたことが現実になった、と狗凪はくらくらする頭の片隅で思った──この烏天狗たちは他所から流れ込んできた妖怪などではなく、れっきとした襲撃だ。
 しかも、狗凪はこの烏天狗たちを良く知っていた。
 狗賓の一族を、幼い頃の狗凪を故郷から迫害した、北方の烏天狗たちに間違いなかった。

 烏天狗はかつて、北の土地神に取り入り、同じ天狗の仲間であったはずの狗賓一族を追いやった。
 頭領である『づき』の残忍さと統率力は妖かしの間でもよく知られていた。かの烏天狗によって滅ぼされた妖かしは数知れず、普段は荒くれの妖怪も、北の土地に手を出そうとするものはいなかった。
 その烏天狗たちが、今、狗凪の目の前にいる。
 烏月の姿こそ見当たらないものの、烏天狗たちが伊達や酔狂でここに入り込んでいるのではないことくらい想像がつく。里が狙われてると悟り、狗凪は戦慄した。
 「お前も俺たちの邪魔をする気なら容赦はしない。そうでなければ、今すぐここから立ち去れ」
 桐寿が言葉にならない声で呻いている。烏天狗の一人が小さく舌打ちし、無造作に桐寿の体を蹴った。
 「っ!」
 瞬間的に頭の中が真っ白になる。狗凪は怒りのあまりこみ上げる吐き気をこらえながら、歯を食いしばった。
 ここで獣の姿になったとしても、到底勝ち目はない。むしろ援軍を呼ばれ、完膚なきまでに叩きのめされるのがオチだろう。なんとかこの場を収め、長に事態を知らせなくては……。狗凪の理性は必死に叫び、怒り狂う自身を沈めようと躍起になっていた。
 烏天狗たちは、どこか楽しげですらある。
 「仲間がやられているというのに、お前は冷静だな。だがどのみち同じことだ」
 「もう少ししたら、烏月様がいらっしゃる」
 別の烏天狗が誇らしげに名を呼んだ。
 「そうすればこの土地も、我ら烏天狗が管理してくれよう。何、悪いようにはしない。むしろ怠惰でどうしようもない貴様らにとって、身にあまる光栄だぞ」
 喜べよ、と嘲笑混じりに言う烏天狗に、今度こそ怒りで気が遠くなるのを感じながら、狗凪は一歩、前へと進み出た。
 もう、里のことも長のことも、どうでもいい。
 そもそもこいつらさえいなければ、故郷を追われることもなく、辛い思いをすることもなかった。その時の記憶に蓋をして、懸命に生きてきた狗凪にとって、彼らの挑発行為は決して許されるものではなかった。
 どうなろうと構わない。こいつらに一矢報いなくては……。
 山犬の姿に戻り、烏天狗の一匹に襲いかかろうとした、まさにその時。

 黒い風が一陣、狗凪の側をかすめ、一番近くにいた烏天狗の喉笛に食らいついた。
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