玄亥の館を出た一同は、近くの川に集まり、これからの打ち合わせを行った。
 館の下には小さな川が流れており、丁度いい日陰になっている。河原には涼やかな風が吹いていた。
 「……山向こうの草木が枯れてるって本当かなぁ。ここら辺はまだ青々としてるけど」
 桐寿はそう言って、若いアカガシの葉をつついた。艶やかな緑色が小さく揺れる。
 狗凪が腕を組んでため息をついた。
 「他の妖かしや狐たちの話からしても、嘘や冗談じゃないだろうな。しかしそれにしたって、さっきの話は規模が大きすぎて……」
 狗凪は力無く頭を振った。
 唯でさえ烏天狗の襲来があったばかりで、混乱の中にあるというのに、木が枯れているだの龍脈が乱れているだのといった話まで頭が回っていない。降って湧いたような責任の重さに押しつぶされてしまいそうだ。
 水面に意味も無く小石を投げ入れていた閃が、大きなあくびをした。
 「あーあ。大体よぉ、カンキョーハカイってのは人間のだったじゃねぇか。それにこの辺だけの話じゃないんだろ? ひょっとしたら世界規模なんじゃねぇの、これ」
 そうかもしれない、とアレクが応じた。
 アレクは腕を組み、何かを考えているように虚空を睨んでいた。
 「龍脈というものがどの辺りまで影響を及ぼしているかはわからないが……もしかすると、本当に世界規模で起こっていることかもしれない。人間たちの環境破壊に似ているけれど、性質が異なる破壊がね。ただ問題は、これがいつまで続くのか、ってことだ」
 「いつまでって……ずっと続くんじゃないのか?」
 狗凪が顔を上げると、アレクは頷いた。
 「考えていたんだ。さっきの話は、人間が一箇所に住むことによって龍脈が活性化するって話だろう? でも、人間がいない時代だってあったはずだ。そういう時代にも龍脈が存在していたのなら、今度の衰退も一時的なものかもしれない。今はただ、人間という特効薬が突然無くなって、バランスを崩しているだけに過ぎないんじゃないかと思うんだ」
 「人間様が特効薬、ねぇ」
 閃が鼻白んだ顔で呟いた。
 「だけど龍脈のご機嫌がいつ治るのか、誰にもわかんねーんだろ? その間に妖かしが滅んだら一緒じゃねーか」
 「うん。だからその間だけでも、今の現状を維持していく必要があるだろうね。閃の言う通り、いつ龍脈の力が戻るかわからないけれど」
 「言うのは簡単だよなぁ……」
 ぼそりと零したのは桐寿だった。
 どの道、厄介なことが立て続けに起きているのは間違いない。もっと言えば、これからのことなど、どんな妖かしにもわからないだろう。
 狗凪は不意に、変身してどこかへ走り去りたい欲求を覚えた。
 あらゆるしがらみから開放されて、見知らぬ土地へ行きたい。思い切り大地を蹴って、岩山を軽々と登ってみたい……。
 だが、そんなことは子供の空想と同じ。いくら逃避してみたところで、現実は変わらない。
 桐寿は疲れた顔をした狗凪に無理やり笑いかけた。
 「環境破壊とかストレスとか、なんか俺たち、人間みたいだよね!」
 「……今は洒落になってないぞ……」
 余計にぐったりした狗凪に、桐寿が慌てて謝る。狗凪は『人間みたい』という言葉を、桐寿ほど前向きには受け取れなかった。
 とは言え、これからは人間のように立ち回らなければならない。好き勝手にやってきた時期は、人間の時代と共に終わってしまったのだ。
 狗凪は大きく息を吸い、吐いた。
 
 一際温い風が、妖かしたちの住む森を大きく揺らした。木々がざわつき、水面はわずかに揺らぐ。
 九月の始め。雨の降る気配は、どこにも無かった。
 


 *****



 狗凪は自分の家で微睡んでいた。

 身体的というより精神的に疲れきって帰宅した狗凪は、はやばやと寝床に横になった。
 狗凪の家は、山の頂上付近にある大きな洞穴だった。清潔に乾いた洞穴には、奥のほうに畳が一枚と、蝋燭が一本あるだけだ。慎重に岩木で隠されたその洞穴は、狗凪にとって心の底から安らげる場所だった。
 いつものように獣の姿に戻ると、狗凪は自分の尻尾に鼻をうずめた。
 そしていつしか、ぼんやりとした夢の中へと迷いこんでいた。


 コンコン、チキチキ、コンチキチ……
 子どもたちの笑い声。大人の声のざわめき。太鼓や囃子の音。遠くで聞こえるそれらの音が、渾然一体となって狗凪の獣の耳をしきりに刺激した。
 ──今日は人間たちの祭りだったかな。
 うとうととそんなことを考えては、確かめる気力も湧かずにまどむ。自分の尻尾は気持ちよく、何より眠りは抗うことができないほど魅力的だった。
 だが、そんな感情とは別に、理性は冷静に指摘する。
 ありえない。人間たちは死滅したのだ。一年経ってもどこにも現れない。そんな人間たちが祭りをするわけがない……。
 ──いや。人間が死滅した、という出来事こそが夢なんだ。
 狗凪は意地になって、おのが尻尾にしがみついた。烏天狗たちと会話したのも夢なら、自分が新しい長になったのも夢だ。
 だが、がんない子供のような言い訳をきょうちゅうに繰り広げている間にも、騒がしい音は鳴り続けている。
 狗凪の意識は漸く、その音が夢の産物でもなんでもないと気づいた。
 それからの覚醒は早かった。狗凪は勢い良く立ち上がり、身体をぶるりと震わせた。
 「な……なんの音だ!?」
 烏天狗達が徒党を引き連れて戻ってきたのだろうか。だとすれば、悠長に寝ている場合ではない。狗凪は獣の姿のまま、山道を駆け下った。


 慣れ親しんだ道を全速力で走り抜け、巣に帰ろうとしていた穴熊の親子を驚かせて、狗凪は里へと急いだ。
 里の中心部は森の一番奥にある。人間が迷い込んでも、いつの間にか森の外へ出ているという不思議な場所に、小さな木造の家がぽつぽつと並んでいた。まるで江戸時代の建物そのままの家は、主に小さな妖かしや行き場を失った妖かしの住居になっている。だがほとんどの妖かしは家ではなく、狗凪と同じように洞穴や木の上をすみとしていた。
 ここが妖かしの里の中心と呼ばれているのは、人目につかない広場があるからだ。妖術で隠された広場は、森の中にあっても十分な広さを持ち、妖かしたちの憩いの場になると同時に、伝達や集会の場としても活用されていた。
 狗凪は広場へと急いだ。
 音は徐々に大きく、騒がしさを増している。だが狗凪はその声の中に、時折笑い声が交じっていることに気が付かなかった。
 ほとんど転ぶようにして広場に入った狗凪が見たものは、広場を埋め尽くす里の妖かしたちの姿だった。
 
 「あー! 狗凪やっときた!」
 赤い顔をした提灯小僧が、狗凪の姿を見つけて声を上げる。狗凪は獣の姿のままその場に立ち尽くし、広場で談笑する妖かしたちを呆然と見つめた。
 「おーおー、遅かったじゃないか」
 「やっと今日の主役のお出ましかい。もう陽は高いぜ、大将」
 鬼の一団がケラケラ笑い、隣で狒々ヒヒがうんうんと頷いた。豆狸たちは広場を走り回り、かと思うと河童たちが奥で相撲を取り合っている。向こうではやまんばと雪女郎が、楽しげに話し合っていた。
 その他、滅多に姿を見せないぬえ、大きすぎて普段はけんえんされるおおくびやがしゃくろなども広場にひしめきあい、それらが一斉に狗凪のほうを見つめている。
 何が起こっているのかわからずに戸惑う狗凪の元へ、桐寿がいつもの調子でやってきた。
 「あっ、よかった。そろそろ起こしに行こうかと思ってたところだったから。ところでさ、東のサトリも呼んだほうがいいかな? 座敷わらしちゃんはなんとか呼んでこれたんだけど」
 「呼ぶって……何を?」
 広場に視線を投げたまま狗凪が聞くと、桐寿が、へ? と首を傾げた。
 「何って。妖かしの皆だよ。ちゃんと狗凪が長ってことは伝えてあるし、それが嫌だって奴は連れて来てないから!」
 明朗な答えに、狗凪はゆっくりと首を巡らせ、桐寿を見た。
 「……ということは、これは全部、お前が呼んできたのか……」
 「えっ、あっ、うん。ダメだった? 新しい長になるんだし、ちゃんと挨拶とか、これからのことを言ってもらえたらと思ったんだけど……」
 「そういうのって普通、前もって俺に一言いっておくべきものじゃないのか……」
 「でも、狗凪は絶対拒否するじゃないか。俺は新しい長になったわけじゃない、あくまで代理だー、とかなんとか言って」
 図星だった。
 それに、と桐寿が付け加える。
 「人間の町に住むんなら、皆に色々してもらわなきゃならないでしょ? 労働力はたくさんあったほうがいいって!」
 「そうそう。アタシ達がやる気になってる内に、ガンガンやっちゃってよ」
 カラン、と良い音を出して、着物姿の骸骨が狗凪の前に立った。緋色の帯に、日本舞踊で使う扇子が差し込まれている。骸骨は器用に扇子を広げ、やわらかな物腰で口元を隠した。
 「狗凪、覚えてるっけ? 踊りの先生の寿ひろさん。ほら、狂骨の……」
 桐寿が身振りを交えると、狗凪は頷いた。いや、これほど強烈な個性を忘れろと言う方が無理なのだが。
 「覚えてる。千寿さん、お久しぶりです。まだ踊りを教えているんですか? 」
 「あら、野暮なこと聞くのね。当たり前じゃない。今はフラダンスを極めようとしてるんだけどね。人間がいなくなっちゃって、それどころじゃないのよ」
 骸骨そのものである千寿が、フラダンスを踊っているところを想像して、狗凪と桐寿の口元に引き攣った笑みが浮かんだ。同じ妖怪といえども、想像した千寿の姿は随分不気味である。
 千寿はそんな二人の様子に気づかないまま、話を続けた。
 「それでそこのつんつん頭から聞いたんだけど、今度は妖怪が人間の町に住むんですって? 良いアイディアだと思うわ。アタシ、人間の町で踊るの、夢だったのよねぇ」
 そう言って、踊りに全てを捧げた骸骨の妖怪は、ケラケラと陽気に笑った。
 妖怪の中には、永すぎる時間を持て余した挙句、奇妙とも言える趣味に走る者も少なくない。ぬらりひょんの囲碁など可愛いものなのだ。
 「それはそうと狗凪ちゃん。アンタ、新しい長になったらちゃんと皆に指示しないとダメじゃない。皆それを待ってるんだから」
 千寿は扇子を畳むと、慣れた手つきで帯に戻す。狗凪はわずかに怯んで、広場に視線を移した。
 「と、言われても……一体何をどう説明したらよいのやら、皆目見当もつかなくて」
 「狗凪ちゃんのことだもの。口ではそう言ってても、草案みたいなのはあるんじゃなくって? 良いから言ってごらんなさいよ。町作りでも踊りでも、頭に浮かんだことが重要なのよ」
 そこを同じにされてはたまらないと思ったが、どちらも初心者である狗凪にとって、千寿の助言を無視するどうもなかった。
 「とりあえず町の中央に、寄り集まって住める場所を作ろうかと思ってるんです。あんまりバラバラに住んでても意味がないと思って……あぁ、そもそも人間の町の地図が必要になるのか……」
 喋りながら、説明するのに必要な物を挙げていく。千寿はそんな狗凪の姿を眺めて、またケラケラと骨を鳴らした。
 「狗凪ちゃんはそうでなくっちゃ。でもいい加減、犬の姿は止めたらどうだい?」
 狗凪は自分の姿を思い出し、小さく悲鳴を上げた──滅多にほんしょうを晒さない狗凪にとって、寝姿を見られたかのような恥ずかしさだった。
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