人間の町は、ある意味で森よりもたちが悪い。狗凪は度々そう思いながら、建物の間を歩いた。
 さほど入り組んでいない道なのに、似たような住宅地や商店街が続いている。人間たちが住みやすいように町を作り続けた結果、同じような景色になっていったのだろう。最も、狗凪が町に慣れていないだけなのかもしれないが。
 それでも、静まり返った町には個性が無かった。
 まるで千年も昔から無機物だったような顔をして、人間たちの町は静かに存在していた。
 狗凪はコンクリートのあちこちから顔を出す雑草に眉を寄せる。手入れされていない町は、すぐに森へと還ってしまうだろう。その前に建物や土地の整備をしなくては……。
 文乃の言葉を間に受けたわけではないが、命令は命令だ。土地の問題は置いておくにしても、妖かしをまとめる必要があった。
 問題点の多さに痛む頭をさすりながら、狗凪は商店街近くを走る大通りへと出る。
 その途端、罵声が飛んできた。
 「テメェ! 調子に乗ってんじゃねぇぞ! このボケ狐が!」
 「ハッ! 腰抜けの鬼なんぞ怖くもねぇわ」
 聞き覚えのある声に、狗凪は周囲を見渡す。
 大通りの向こう側はアーケードになっており、声はその中から聞こえているようだった。
 薄暗いアーケード街へと足を踏み入れた狗凪は、理髪店やラーメン屋の看板を通り抜け、十字路を左に曲がった。声は更にその奥から聴こえてくる。
 天井が途切れたアーケードの奥、薬局の前で、野狐と朱色の鬼が口論を繰り広げていた。
 「あぁ、これだから知性のちの字も無い鬼は嫌だわ。脳にまで酒が回ったか?」
 「うるせぇ! 大体、なんで俺がテメェみたいなクソ狐と人間の町にいなきゃいけねーんだ!」
 「ケッ。あの腑抜けた犬が長になったからよ」
 面白くもないと息を吐いた野狐は、暗がりからこちらへ向かってくる狗凪に気づくと、露骨に顔を顰めて見せた。
 「噂をすると、若長様か」
 「嫌味はいい。いがみ合ってる場合じゃないだろ。いつまた烏天狗たちが襲ってくるかわからないときに、喧嘩なんて……」
 「おいおいおい、ちょっと待てよ」
 横から鬼がぐい、と割り込んでくる。背丈が二メートル強はある鬼が、朱色の顔を更に真っ赤に染めていた。
 「俺達の身にもなってみろや、狗凪。いきなり長が交代して、はいそうですかと納得できるかってんだ」
 「……何が不服なんだ?」
 「何がって?」
 野狐が宙にむかって笑った。
 「全部よ! いきなり若ぇのから命令されるのも、こんなバカと一緒に仕事させられるのも、まっぴらごめんだって言ってんだ!」
 嫌味ったらしく野狐が笑うと、鬼も釣られて鼻で嗤った。
 「まったくだ。ってなわけで狗凪、俺ぁ自由にやらせてもらうぜ」
 鬼は自慢の二本角を天に振りかざすと、足音荒く去っていく。狗凪が止める間も無く、野狐も尾を翻した。
 「ま、同情はしてやるよ。けど、俺らにも俺らなりの矜持ってやつがあるんでな。お前の下にはつけないわ」
 振り向きざまに言って、野狐はひょいと薬局の屋根に飛び移る。青空に消えていく尻尾を見送りながら、狗凪は呆然と立ち尽くしていた。

 「……何やってんだろう、俺」
 


********



 緩やかな坂道を下りながら、狗凪は晴れない心をずるずると引きずり続けていた。
 活気のない路地を通り抜けて民家の軒先を歩く。熱気を孕んだ風が、生け垣のオシロイバナを揺らした。
 何もかもが憂鬱だった。
 しつこく明るい夏の日差しも、雨を忘れた空も、海も、山も、そして妖かしも──
 「……やっぱり、断っておくべきだったなぁ……」
 呟いても、今更どんな顔をして玄亥に『やっぱり嫌だ』と言いに行けるのか。狗凪はこの数日で、自分が長に向いていないと痛感していた。
 玄亥のように、圧倒的な力を持っているわけでもない。ぬらりひょんのように、相手を従わせるような舌も持ち合わせていない。
 ただの使い走りとしては、その場しのぎの嘘で烏天狗を騙すくらいがせいぜいである。それなのに、と狗凪は再三空を仰いだ。
 「これからどうするかな……とりあえず、誰かいそうな場所に行ってみるか……」
 桐寿が向かったという学校へ行くことも考えたが、作業の邪魔になるかもしれない。あれこれ考えていたが、足は自然と坂道の終点である海へと向かっていた。

 照りつける太陽に、むせ返るようなしおの匂い。
 長い桟橋には何艘かの小舟が繋いであったが、もやい綱が外れたり壊れたりして、ほとんどの舟が沈みかけていた。
 狗凪はあまり海が好きではなかった。狗賓という種族自体もあまり水を好まず、川で遊ぶのが関の山だ。それでも、寄せて返す波の音には、不思議な魅力があった。
 防波堤に飛び乗ると、小さな港が一望できる。
 狗凪は防波堤の上でぐらをかき、見るともなしに海を眺めた。
 まだ人間がいた頃の、窮屈ではあるが気ままな生活に想いを馳せると、今の自分が酷く惨めに思える。明るい陽光と、どこか気楽なウミネコの鳴き声も、惨めさを際立たせる小道具にしかならなかった。

 海を睨みつけたまま考え事をしていた狗凪の耳に、小さな音が聞こえた。
 水が跳ねる。ばしゃり、ばしゃり、と波がのたうっている。
 当たり前だ、ここは海なんだから──狗凪は再び、憂鬱な考え事に戻ろうと海から意識を離しかけた。
 しかし本能的な何かが、狗凪を引き止めた。
 ばしゃり。
 ばしゃ、ばしゃん…… 
 不規則な水の音は、波や器物から発せられるものではない。それに気づくと、狗凪は用心深く立ち上がった。

 ──何かが、海にいる。


 消波ブロックの向こう側に目を凝らすと、一際不自然に泡立つ場所があった。予想通り、細長い『何か』が海面から突き出ては、水しぶきを上げていた。
 更に目を凝らし、狗凪は小さく悲鳴をあげた。
 「──手、だ……!」
 水に濡れた人の手が、水面から伸びたり沈んだりしている。まるで何かを掴もうとするかのような動きに、狗凪は動揺して立ち尽くした。
 
 何度否定したとしても、『どこかに人間がいるのではないか』という疑問があった。人間が完全に滅んだ証明など、例え妖怪であってもできないからだ。
 人間がいるなどありえない。アレクの時と同じように、見間違えているだけだ……いくらそう自分に言い聞かせても、『もしかしたら』という可能性を捨てきれない。
 迷う狗凪の心情を察したかのように、手の動きが鈍くなった。
 ばしゃ、ばしゃ、と力無くくうを掻き、手はやがて静かに波間へ沈み始めた。狗凪は再び悲鳴を上げて、覚悟を決める暇も無く、海へと飛び込んだ。

 人間の存在を完全に否定できないのならば、実際に確かめる以外に無い。
 そうはわかっていても、海に飛び込んだ狗凪は早々に後悔する羽目になった。
 なにせ上手く泳げない。
 川や池では浮いた身体が、みるみるうちに沈んで行く。
 近くに消波ブロックがあるせいで、波が複雑なことも問題だった。これだから海は、と内心毒づく間もなく、底知れぬ海へと引きずりこまれる。次の瞬間、頭の上から波を被り、狗凪の意識がめいめつした。
 ばしゃり。
 すぐ近くで水の音がした、と思うと同時に、『何か』が勢い良く狗凪の襟を掴んだ。
 『何か』は恐ろしいまでの力で狗凪を引っ張り、海を泳ぎ始める。
 途中、何度も沈んでは浮かび、塩辛い波が何度も狗凪を襲ったが、その度に『何か』はまるで狗凪を叱咤するかのように持ち上げ、息を吐かせた。
 永遠の苦行にも似た時間の後、狗凪は漸く消波ブロックの端にしがみついた。
 しきりに咽るすぐ側で、生き物の気配がする。顔を上げた狗凪が見たのは、灰色の顔だった。
 「……君、にんげん?」
 灰色の顔は、そう言って首を傾げた。
 狗凪は塩水の飲み過ぎで痛くなり始めた喉をさすりながら答えた。
 「そう、見えるか?」
 「んー、見えない。というか、何も見えない」
 人影は、まるでわたあめのように銀色でふわふわした髪の毛を掻き上げた。
 少女の顔の、本来眼球が有るべきところに、包帯がぐるぐると巻かれている。狗凪は驚いて顔──その少女を見つめた。
 「……そう言うお前はなんだ? 妖かしか?」
 「うん、そうだよ。おばあちゃんとずっと旅して来たんだ。そしたら、おっきな犬が溺れてたから、助けた。そしたらね、喋る犬だった!」
 ケタケタと少女が笑う。
 狗凪も釣られて笑いそうになりながら、
 「……その喋る犬って、もしかして俺のことか?」
 「そーだよ! あははは! ワンちゃん……ひたひ! ひたひよわんひゃん! ほっへたのははないひぇー!」
 少女の頬を引っ張ると、餅のように伸びていく。手を離すと、少女は自分の頬をさすった。
 「暴力ワンちゃんだ……!」
 「俺は犬じゃない。よく見ろ、ちゃんとした妖かしだ」
 「だから、見えないんだってば」
 「あ……そうか」
 少女は、ゆっくりと手を狗凪の顔に伸ばした。
 狗凪は一瞬怯んだが、動かずにいた。やがて少女の、どこか無機質な指が、狗凪の顔を撫でた。
 頬、鼻、額に沿って、まるで形を確認するかのように指が動いていく。狗凪はくすぐったいような、そら恐ろしいような気分で、されるがままになっていた。
 手を離した少女は、ぱっと花が咲いたような笑顔を浮かべた。
 「わー……! 溺れる妖怪ってこの世にいるんだ!」
 少女の、無邪気に言い放ったその言葉に、狗凪は『海に沈んで二度と上がってきたくない』と本気で思った。
 

********************


 海面からよじ登った狗凪は、濡れたまま堤防に寝転がった。
 身体が重い。目蓋越しにでもわかるほど明るい日差しが、うっとおしくて仕方なかった。
 うっとおしさで言えば、知り合ったばかりのかいようも負けてはいない。
 灰色の肌の少女は、狗凪の隣に座ると、小さく鼻歌を歌い始めた。
 「……お前、人魚だったのか」
 少女の、人間で言うところの足の部分が、まるで魚のように伸びている。海から上がったことで露わになった少女の全身は、淡く銀色に輝いていた。
 「うん。はいって名前だよ。ワンちゃんは?」
 「俺はワンちゃんじゃない。狗凪だ」
 「くなぎ……いかなご!」
 「それはくぎ煮」
 なんてマニアックな料理を知ってるんだ、と呆れ返る。灰良はケラケラと笑った。
 「ところでお前、海から手を出して何やってたんだ? まるで溺れてるみたいだったぞ」
 身体を起こしながら狗凪が言うと、灰良は頬を膨らませる。目を隠しているにも関わらず、表情がころころ変わるのがわかった。
 「人魚だから溺れないよ。あのね、空気を掴めるかなぁ、って」
 「……無理じゃないのか」
 「あとちょっとだったんだよ! 波に合わせてこう、ふわーっと!」
 よくわからない力説をする灰良は、子供のように楽しそうだった。
 狗凪はふ、と息を吐き出す。疲労感が完全に無くなったわけではなかったが、心地良い気怠さを覚えていた。
 どこかでウミネコが鳴いていた。足元に押し寄せる潮騒とその音が、夏の空気に溶けていく。
 不意に灰良が流線を描き、海へと飛び込んだ。
 ざあ、ざあ、と鳴る潮騒に混じって、灰良の笑い声が響いた。
 「くなぎー! なまこ、いるー?」
 いつの間に取ってきたのか、灰良の手には哀れな海鼠が握られている。ぐったりとしているその生物に同情を寄せつつ、狗凪は首を横に振った。
 「いらん」
 「ちぇー」
 そう言って、灰良は再び海へと潜る。まるでイルカが回遊しているかのような姿を、狗凪はぼんやりと眺めた。

 ふと、小さな足と白い着物の裾が視界に入った。すぐ横に誰かが立っている。
 「ふぅ、やれやれ。あの子はあんなところで遊んでたのかね」
 しわがれた声の主は、よっこいしょ、と狗凪の隣へと腰を下ろした。浅黒い肌をした老婆だ。
 老婆は目を細めて、遠くを泳ぐ灰良を見つめた。
 「……あの」
 「ほうほう。若いの、灰良が迷惑かけたね。元気な子だから目が回っただろう?」
 老婆がにやりと笑う。狗凪は、この老婆が先程灰良が言っていた『おばあちゃん』だと思い当たった。
 「いえ、ちょっと驚いただけです。人魚なんて初めて見た」
 「おや、こんなに海が近いのに? とは言え、人魚も昔ほどいないからね。アンタみたいな若い妖かしが、人魚を知らないのも無理ないことさ」
 老婆は穏やかだった。一見すると人間にしか見えないが、歳経た妖かし特有の存在感を纏っている。
 「そういえばまだ名乗ってなかったね。アタシはいそおんな。あの子はハマのばあちゃんとかおばあちゃんとか呼んでるよ」
 「俺は狗凪と言います。ここの妖怪の里の……えぇと、長になったばかりです……」
 老婆の、細く閉じられた目が一瞬、大きく見開かれた。
 「そうかい。随分若いのに、大役を任されているんだねぇ」
 「こんな時ですからね……お二人は、諸国を旅されてるんですか?」
 少しだけ慎重になりながら、狗凪が尋ねる。先日の烏天狗の一件以来、『外』から来る妖怪には警戒が必要だと痛感していた。
 だが歳経た磯女は、からりと笑って言った。
 「そうそう。あの子にはいろんなものを教える必要があったからねぇ。それに、アタシは旅をしているほうが性に合っていたのさ」
 そう言って灰良を見つめる磯女の目は、凪いだ海のように穏やかだ。狗凪も釣られて灰良を眺めた。
 灰良は海に潜ったり出たりを繰り返しながら、ゴミを拾い、投げ捨て、今度は海藻を掴み……という風に、一瞬も大人しくしていない。
 呆れている狗凪に向かって、磯女は愉快そうに肩を揺らした。
 「はっはぁ。面白い子だろう? あの子といると退屈知らずでね。アタシが猫可愛がりしたもんで、ちょっとばかし世間知らずだけど、自慢の娘みたいなもんさ……それで、その灰良のことで、若い長にちょっと頼み事をしたいんだけどね」
 嫌な予感がした。
 第六感とも言うべき感覚で、狗凪は受難を察知する。曖昧に笑って会話を誤魔化そうとしたが、遅かった。
 「別に大したことじゃないさ。あの子を、灰良をこの里に置いてやってほしいんだよ」
 
 予想していなかったと言えば嘘になる。
 だからこその『嫌な予感』なのであり、自分の手に余る一つの『厄介事』なのだ。
 ──こんな時に限って、他所の妖かしが里に入ってくるとは。
 いや、こんな時だからこそ、彼女たちはこの里を頼って来たのだろう。ずっと旅をしてきた結論が、『どこかの里に身を寄せる』というものだったとしてもおかしくない。
 しかし、だからと言って、簡単に里に入れるわけにもいかない。狗凪は先日の烏天狗たちを思い出し、口元を引き締めた。
 「……俺は、長になったばかりで」
 我ながら歯切れの悪いと呆れながら、狗凪は先ほどと同じ言葉を繰り返す。
 海妖の老婆は、うんうんと頷いて言った。
 「そうさなぁ。出会ったばかりのアンタにこんなお願いをするのも悪いと思ってる。でも、アタシもあの子も根無し草でね……頼れるものが何も無いんだ」
 だからお願いだ、あの子だけでもいいからここに居させてやってくれないかい。
 狗凪は水平線と空の間を難しい顔で眺めながら、磯女の言葉を聞いていた。
 波は緩やかにうねり、その間から灰良の頭が時々覗いては、銀色の飛沫をあげている。彼女はまるで楽しくて仕方が無いというように、空に向かって手を広げた。
 「くなぎー!! 泳がないのー!?」
 ふ、と狗凪の口元が緩む。
 灰良に返事をする替わりに、磯女の目を見据えて答えた。
 「……わかりました。今は色々慌ただしいですが、それでもよければ俺達の里に来て下さい」
 磯女はまっすぐに狗凪を見つめ返し、優しく微笑み返した。
 「アンタが良い妖かしでよかった。それじゃ、よろしく頼むよ」
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