ここがどんな里なのか見て回りたい、という磯女の要望で、狗凪は町の中心まで二人を案内することになった。
 人魚である灰良はどうやって陸に上がるのだろう、と不思議に思っていたのだが、磯女はあっさりと言ってのけた。
 「大丈夫だよ。人魚の一族は生まれつき人間に化ける術を持っているのさ」
 ところが磯女の言葉とは裏腹に、灰良はいつまで経っても海から上がろうとしない。早くしないと置いていくよと磯女が急かすと、灰良は渋々浜へと上がった。
 理由はすぐにわかった。
 人魚が陸に上がる時、下半身を人間の足に変化させるのだが、灰良はまともに歩けなかったのだ。
 白のワンピースから突き出た二本の細い足は、まるで生まれたての子鹿のように震えていた。
 「く、く、くなぎ、歩くの早くない? 早いよ? ちょっと待って、転びそう……!」
 灰良は、まさしくおっかなびっくりといった風情で、狗凪の腕にしがみついている。狗凪はその度に立ち止まり、怯える彼女の次の一歩を我慢強く待つ羽目になった。
 「だからちゃんと化ける練習をしろ、って言ったじゃないか。それをずっとのらりくらり逃げ回ってたから、今、困ってるんだろう」
 磯女の指摘に、灰良は唇を尖らせる。
 「だってだって、陸は海と違って硬いものばかりだし、物がどこにあるのかわからないし、おばあちゃんも危ないから上がっちゃ駄目だって言ってたよ」
 「もちろんさ。でも、全然出来ないのも問題だから、少しは練習しておきなさいとも言ったよ。お前はちっとも聞いてやしなかったけどね」
 むぅ、と頬を膨らませた瞬間、何かに躓いて転びそうになる。小さな悲鳴を上げた灰良に押され、狗凪まで倒れかけた。
 「お願いだから真っ直ぐ歩いてくれ! こっちまで危ないんだ……!」
 「そんな事言ったって! 陸に上がった魚は歩けないんだよ!?」
 「その前に魚は息が出来ないだろ……」
 姦《かしま》しく言い合う二人に、老婆はやれやれと首を横に振った。
 
 ふと顔を上げると、丁度道の向こうから見慣れた二人組がこちらへ歩いてくるところだった。
 二人は一様に怪訝な視線を狗凪に寄越す。まるでコンビニ帰りのように、ビニール袋を下げた桐寿と閃に、狗凪は引き攣った笑みを返した。
 「……ねぇ、狗凪、何やってんの?」
 「俺も聞いておく。狗凪、それ楽しいのか?」
 「……頼むから聞いてくれるな……」
 桐寿と閃の声に、灰良がキョロキョロと首を巡らせ反応する。
 桐寿は首を傾げて灰良を眺めた。
 「この子、誰?」
 「説明すると、アレクと同じ経緯で里に入ることになった。人魚と海妖の二人連れだ」
 これ以上無いくらいに簡潔に説明できてしまった。いや、詳しく話そうとすれば長くなるかもしれないが、灰良から常に腕を引っ張られている状態の狗凪にとって、これが一番しっくりくる。桐寿と閃も「アレク」という単語で、早々に察したらしかった。
 「あー……なるほど。また"外"からのお客さんかぁ。はじめまして。俺は桐寿。こっちは友達の閃って言います」
 桐寿の紹介で、閃が軽く頭を下げる。その様子に、磯女は目を細めて笑った。
 「行儀の良い子達だねぇ。あたしは磯女。こっちでガタガタ震えてるのは、人魚の灰良だよ」
 「よ、よ、よろしく……」
 灰良はまだ地面に慣れないらしく、風にそよぐ柳のように揺れている。狗凪はすっかり伸び切った鈴懸《すずかけ》を直して、桐寿と閃に話しかけた。
 「ところで、二人で何をやってたんだ? ビニール袋なんて下げて」
 「あぁ、これ? 文乃さんに届け物」
 「……届け物?」
 平安時代がそのまま続いているような文乃と、ビニール袋という組み合わせに違和感を感じて、狗凪は首を傾げる。閃が笑いを堪えた口調で囁いた。
 「中はもっと凄いぜ? まぁ、後でのお楽しみってやつなんだが……お前も来るか?」
 いかがわしいことじゃないだろうな、と眉を潜めた狗凪に、閃はニヤニヤしながら首を横に振る。文乃にもしものことがあれば、玄亥からどんな仕打ちを受けるかわからない。
 だが、ビニール袋の中身は、その文乃自身からの依頼品だと言う。狗凪は増々首を傾げた。
 「……悪いんだけど俺、この二人を案内しなきゃいけないんだ」
 狗凪がそう断わると、磯女が笑みを浮かべて首を横に振る。
 「いや、案内してもらうのは後日でも構わないよ。先にその文乃って妖かしを紹介してもらえないかい?」
 「そうですか。じゃあ俺達も一緒に行くよ。……灰良、大丈夫か?」
 狗凪の腕を命綱の如く掴んでいた灰良は、しばらく考えた後無邪気に頷いた。
 「大丈夫。でも転びそうになったら、誰か掴んでいい?」
 桐寿と閃は、互いに顔を見合わせる。
 「こりゃ! 他所の妖かしを杖代わりするとは何事か!」と磯女が叱り飛ばす横で、灰良に引っ張られて、もみくちゃにされる二人を想像して、狗凪は思わず笑いを噛み殺した。



 「ところでさ、」
 磯女と灰良を含めた五名は、なだらかに続く道を歩いていた。
 灰良の脅威から身を守る為、狗凪はわざと少し遅れて歩いていたが、いつの間にか隣には桐寿が並んでいた。声のトーンを落とし、前方を気にしながら、桐寿は狗凪に囁く。
 「なんであの妖かしたちを里に招き入れたの?」
 言われて、灰良と磯女に視線を向ける。
 灰良は未だにふらふらとしていたが、少しずつ自分一人で歩ける距離が長くなっているようだった。
 「困ってたから……じゃ、だめかな」
 言葉を濁す狗凪に、桐寿が珍しく渋い顔をする。
 「狗凪らしいと言えばらしいけど。でも、この間のこともあるし……こんなことを言うのもなんだけど、少し用心したほうがいいんじゃないかな」
 桐寿の忠告は最もだった。
 警戒心の強い妖かしたちの里に、外部から妖かしを招き入れることは稀だ。普段ならアレクの一件も、黙殺されるか追い出されるかどちらかだっただろう。しかし、アレクの滞在を許した玄亥は、既に引退してしまった。
 玄亥には、里の妖かしたちをまとめてきたという自信がある。時として横暴に映るその自信が、この里をひとつにまとめ上げてきたと言っても過言ではない。見知らぬ妖かしを簡単に受け入れることができたのも、この自信があったからこそだ。
 だが、狗凪にはそれが無い。
 狗凪は桐寿の視線に、不安を読み取る。何も見知らぬ妖かしまで背負い込まなくても、と言いたげな瞳に、狗凪は俯いた。
 「……確かに俺は前長のように、上手くこなせない。皆をまとめることも、説得することも、全然できる気がしない」
 「そんな。狗凪は上手くやってるよ」
 慌てて否定する桐寿に、狗凪は疲れた笑みを向ける。
 「その『上手くやってる』って言うのは、『上手くいっている』ってことじゃないだろ? 俺だって、最初から全部上手くいくとは思ってないし」
 だけど、と狗凪は拳《こぶし》に力を込める。
 視線の先には、のろのろと歩く灰良の姿があった。
 「……だからって、あの妖かしたちを放り出すことはできない」

 幼い頃、どこにも行き場所の無かった自分がいる。
 あらゆる場所から追い立てられ、腰を落ち着ける暇もなかった。他の土地の妖かしたちは、見知らぬ狗賓《ぐひん》を嫌い、話も聞かずに追い出すことが常だった。
 そんな暮らしの中で、狗凪の一族は散り散りとなっていく。
 漸く辿り着いたこの土地で、初めて玄亥と出会った時のことを、狗凪ははっきりと覚えていた。まだ幼かった狗凪に、玄亥の巨体は山そのもののように見えた。
 またか、と狗凪は諦めの気持ちで、今までの経緯を話し始める。
 どうせここでも同じような扱いを受けるのだろう。身の上話は途中で遮られ、とにかく出ていってくれと告げられるのだろう……。
 狗凪の予想通り、玄亥は話を途中で遮った。
 「あー、わかったわかった。とりあえずお前は明日から飯炊きだ」
 その時自分がどんな顔をしていたか、狗凪は思い出せない。恐らく、何を言われたのかまるで理解していなかったのだ。
 初めての言葉に戸惑い、どう返事していいものかまごついていた狗凪に、玄亥は仏頂面のまま続けた。
 「住む部屋は適当に決めろ。部屋だけは腐るほどあるからな。嫌なら外の木の枝ででも寝ろ」
 「……あの」
 「なんだ?」
 「……住んでもいいんでしょうか……?」
 今度は逆に、玄亥が目をしばたたかせる。
 何言ってんだ、と呆れ果てた様子だったが、その目はどこか優しかった。
 「手前が住みたいって言ってきたんじゃねぇか。安心しろ、知恵も図体も無い小童《こわっぱ》妖怪が一匹二匹増えたところで、この里はどうにもならねぇよ」
 最もな話だ。
 だが、拒絶され続けてきた狗凪にとって、その言葉はまるで凍えた身体を暖めるように、静かに染み入った。
 狗凪は生まれて初めて、心の底から頭を下げた。

 「……そっか、そりゃそうだ」
 聞き慣れた声で我に返ると、隣で桐寿が罰の悪そうな苦笑いを浮かべていた。
 「俺だってあの人たちみたいな境遇だったのに、いつの間にか忘れてたよ。……やっぱり、狗凪が長になってくれてよかった」
 「無理やり長に仕立て上げた、の間違いだろ」
 わざと素っ気なく言うと、桐寿が照れくさそうに頬を掻く。
 「そうだったっけ? でも、狗凪以外の他の妖怪に長を任せるって、想像できないなぁ」
 そう言って笑う桐寿に、狗凪も渋々ながら同意する。
 先の、狐や鬼のといった妖かしたちに比べれば、自分のほうがまだマシだ──程度の同意なのだが。

 気づくと、先頭を歩いていた閃が立ち止まっていた。
 閃だけではなく、灰良や磯女も立ち止まり、一軒の古民家を見上げている。
 普通なら表札の出ている場所に、大きな木の一枚板が貼り付けられており、そこに『公民館』とだけ記されていた。どうやらこの地区の寄り合い所のようだ。
 「着いたぞ、ここだ」
 言うなり、躊躇いもなく扉を開ける閃。
 狗凪は何度か家と一枚板を交互に見つめ、頬を引きつらせた。
 ──こんなところに、文乃がいるって?



****


 どちらかと言えば昭和の匂いがする公民館の中は、綺麗に片付けられていた。
 何かの集会で使われたのか、いくつか長テーブルが置かれている。その前に、ぽつんと文乃が座っていた。
 あまりにも似合わない。
 いや、時代的な意味では、アレクが住んでいるような現代住宅よりもマシかもしれないが。
 思わず脱力する狗凪を見て、文乃が驚いた表情をする。
 「貴方も来ていたんですね。良かった、心配していたんです」
 「心配?」
 首を捻る狗凪に、文乃は頷いた。
 「ここへ来る途中、何やら鬼と狐が争っていたと聞いたのです。その場に若長もいたと……貴方が揉め事に巻き込まれたのかと、気になっていました」
 あれを見られていたのか、と狗凪は苦々しい思いに駆られる。揉め事に巻き込まれたと言うよりは、一方的に無視されただけなのだが、文乃の心配そうな顔の前では無難に笑う他無かった。
 「大丈夫です。大体、長になれば揉め事の一つや二つ起こるものでしょう」
 「そうでしょうか……それならば良いのですが」
 文乃が心配そうに告げる側で、閃のうずうずとした気配を感じ取る。この喧嘩っ早い妖かしに、『揉め事』の三文字を聞かせるだけでも危険だ。
先の烏天狗の一件を思い出し、狗凪は慌てて話題を変えた。
 「いや、そんなことより丁度こちらも用があったんです」
 磯女と灰良が、揃って文乃にお辞儀をする。
 「こちらは磯女と、人魚の灰良。俺達の里に住みたいとの申し出がありました」
 「まぁ……それはそれは」
 一瞬、何か言いたげな視線が狗凪に注がれる。どこか不安の交じるその視線に気づいたのか、狗凪が口を開くより先に、磯女が切り出した。
 「はじめまして、山神の娘様。アタシたちは日本中を旅してきてね。だけど人間がいなくなっちまって、土地も物騒になってきたもんで、安全な場所を探してここに辿り着いたと言うわけさ。良かったらここに住まわせてもらえないかねぇ」
 文乃はすぐにいつもの柔らかい笑みを浮かべた。
 「いくら山神の娘と申しましても、私には何の権限もございませんわ。そちらにいる狗凪が良いと言うのであれば、私も異存ありません」
 「でも、一応挨拶はしておかなきゃねぇ。ほら、灰良も挨拶おし」
 磯女に促され、灰良がぎこちない笑みを向ける。文乃も袖で口元を隠しながら微笑んだ。
 「まぁ、可愛らしい妖かしだこと。ここまで大変だったでしょう?」
 「そうでもなかったよ。ずっと海を渡ってきたから……私は人魚の灰良。文乃は何の妖怪なの?」
 「私はこの一帯の山を司る、龍神の娘です。姿で言えば、蛇になるでしょうか」
 灰良が、ぱっと顔を輝かせた。
 「龍神様なら知ってるよ! 昔、海の龍神様にあったことがあるんだ。山の龍神様にも会いたいな」
 文乃の表情がわずかに曇る。
 目の見えないはずの灰良も、急に押し黙った空気を感じ取り、不安そうに首を巡らせた。
 「……どうしたの? 私、変なこと言った?」
 「いいえ。貴方が、というより、この里全体が変になっているのですよ」
 寂しげに微笑んで、文乃は自分の知っている話をかいつまんで二人に聞かせた。
 里山一帯の植物が枯れ始めていること、雨が降らなくなっていること。
 人間によって活性化されていた土地が衰退し、龍脈が消えようとしていること。
 そして、龍神が姿を消したこと……。
 それは狗凪が若長に任命された日、文乃が語って聞かせた話だった。
 「だからこそ、早急にこの土地を元に戻さねばならないのです」
 文乃がそう言って話を締めくくると、磯女は額に手を当てて眉根を寄せた。
 「そういうことになってるなんてねぇ……困った時期に流れ着いたもんだよ、アタシたちも」
 「すみません。もっと早く言っておけばよかった」
 他所から来た者に現状を伝えるのも、長としての重要な役割だったはずだ。狗凪が肩を落とすと、磯女は苦笑した。
 「しょうがないさね。それにその話で行けば、ここは他所よりずっとマシなんだろう? それなら出ていくより、アンタたちの世話になっていたほうが安全だろうよ」
 「マシってだけだぜ。もうじきここも、他所と同じになる」
 会話に入ってきたのは閃だった。
 どこかふてくされたような顔で、大きな窓を顎でしゃくってみせる。その場にいた全員が、釣られて窓の外を見た。
 貧相な庭に、雑草が生い茂っていた。その奥は小さな茂みで、道路からの目隠しになっている。生い茂る低木は灰を被ったように白く、くすんでいた。
 「あの火山灰みたいな白いのは木の病気なんかじゃねーぞ。ここ数日で一気に広がってきたんだ」
 「どこから」
 問うた狗凪の声は固く、緊張していた。閃が投げ捨てるように応える。
 「山から。詳しく言うなら周り全部からだな。俺もここに来る途中偶然見つけたんだ。一度気づいたら、嫌でも目に入ってくる」
 思わず遠くの山々に目を凝らしても、見えるのは毎日目にしているものと変わらない緑だ。だが目の前にある『異変』は確かに、確実に、麓の町を飲み込もうとしている。
 「……この移住がうまくいけばいいんだけど」
 そう呟くと、桐寿は重苦しいため息を付いた。
Book Top  あやかしのくに 目次   back  next


inserted by FC2 system