「そうそう、忘れておりました」
 重い空気を拭い去るように、わざとらしいまでの明るさで、文乃が小さく手を叩く。
 「あの、お願いしていたものは持ってきていただけましたか?」
 「あぁ。多分、これでいいはずだけど」
 閃がビニール袋を差し出すと、文乃は目を細めて受け取る。大事そうに抱えて、そそくさと隣の部屋へと消えた。
 すかさず扉の前に蛇童子が座る。まるで誰かが部屋へ行くのを遮るような姿に、狗凪はますます首を捻った。
 「……なぁ。本当にあの袋の中、何が入っていたんだ?」
 「すぐにわかるだろ、あの様子なら」
 喉を鳴らして笑う閃に嫌な予感を覚えたが、部屋に押し入るわけにもいかない。憮然としたまま、しばらく待つことになった。
 陽はとうに暮れかかっている。少しずつ暗くなっていく空に、点を打ったような星が広がっていく。
 妖かしにとって暗闇はさほど重要ではない。むしろ、あらゆる生物、存在の中で、人間が一番暗闇を恐れていたのではないだろうか。
 だからこそ、妖かしの自分から見ると『狂ったように』、町を明るくしていたのではないだろうか──暗闇の底に沈みつつある町を眺めながら、狗凪はぼんやりそう思った。恐らくこの暗さこそが、物事の本当の姿なのだろう。
 ぼんやりと物思いに耽っていると、いつの間にか隣に座っていた灰良が、犬のように空中の匂いを嗅いでいた。
 「ねぇ狗凪。夏の匂いがするよ」
 灰良はそれが重大な発見であるように告げる。狗凪は軽く笑って、窓の外に目を向けた。

 その時、蛇童子が立ち上がったのと同時に、扉が開いた。
 「お待たせしました。初めて見る服でしたので、着るのに手間取ってしまって……どこかおかしくはありませんか?」
 そう言って文乃は、その場で優雅に回ってみせる。
 文乃が着ていたのは、いつもの十二単ではなく、ジャージだった。
 「……」
 ジャージ、だった。
 今時、人間の学生ですら着るのかわからない。長袖の先は絞られ、いつでも校庭を走ることができそうなその服は、文乃の長い白髪と、恐ろしく合わなかった。
 魂の抜けきっている狗凪とは対象的に、閃と桐寿は満足そうに頷いている。
 「よかった! 長さ、丁度良かったみたい」
 「な? やっぱり俺が睨んだ通り、似合ってるだろ?」
 どの感覚を持って『似合っている』という評価になるのか理解に苦しむが、着ている文乃も嬉しそうに微笑んだ。
 「狗凪。どうでしょうか? 初めてこのような洋服を着てみましたが……」
 俺に振らないでくれ、と祈るような気持ちで狗凪は文乃を眺める。まるで上質な絹糸のような白く長い髪も、清楚でたおやかな面持ちも、全部ジャージで台無しですとは、死んでも伝えられない本音だった。
 「……ところで、どうしてこんな格好を?」
 返事の替わりに問うと、文乃は顔を輝かせた。
 「よくぞ聞いてくれました。わたくし、狗凪を手伝いたいと思います」
 胸を張り、きっぱりと言い切る。
 果たしてこれが、先日まで人間の絶滅を嘆いていた妖かしと同じなのだろうか、と狗凪は一瞬考え込んだ。  
 勇んでジャージを着込み、自分の仕事を手伝うと名乗り出た文乃に、一体どんな心境の変化があったと言うのだろう。訝しげに眉根を寄せる狗凪に、文乃は目を伏せた。
 「妙な奴だとお思いでしょうが……嫌気が指したのでございます」
 「嫌気?」
 文乃が頷く。その瞳には、見たこともない蛇の鋭い眼差しが宿っていた。
 「自分の何もかもに。人が死に絶え、我々妖かしの平和も脅かされ始めている。龍脈は乱れ、山神は姿を消した。にも関わらず、わたくしは独り館で嘆いているだけ。何も知らず、何もせず、ただ雛鳥のように誰かが何かをやってくれるのを待っている……わたくしはそんな自分に、あきあきしたのでございます」
 その場で背筋を正し、まるで決意を固くするように言う文乃は、かつて館で出会った頃とは見違えるほど生き生きとしていた。
 「それでその衣装ですか……」
 「い、いけませんか? 何か変でしたか? 動きやすい服を、と彼らに頼んだのですが……」
 閃と桐寿を横目で睨みつけると、二人があからさまに視線を逸らす。肩を落とし、狗凪は降参の意味で手を上げた。
 「お気持ちは嬉しいんですけど、俺も未だにどうすればいいのか手探りの状態で。皆の言い分や要望を取りまとめるのだって上手くいってないですし、そもそも山から降りてきてくれる妖かしの数もあまり増えてないですし」
 「ねぇ!」
 狗凪の愚痴を遮って、唐突に灰良が手を上げた。
 「私も狗凪を手伝うよ! だって面白そうだもん! お祭りの準備みたい!」
 「まぁ確かに言われてみれば、文化祭の前日みたいな感じだよな」
 閃も真顔で同意する。横では桐寿が懐かしそうに目を細めた。
 「わかるわかる。狗凪には悪いけど、ちょっと楽しかったりして」
 気楽な者達は、長の気苦労も知らずに祭りの算段を立て始めている。冗談じゃない、と狗凪は慌てて割って入った。
 「お前ら、遊びじゃないんだ。やる気があるのは嬉しい。が、そういうのは全部落ち着いてからにしてくれ……」
 「でも、ちょっと面白そうですね」
 振り向くと、顔を真赤にした文乃と目が合った。
 「あ、いえ。もちろん優先されるのは町の基盤作りです」
 急いで取り繕った文乃だが、依然として目が輝いている。
 「……ですが、元々人間の町を作り変えているのも、全ては龍脈に活力を与える為。そしてその為には、地上での大掛かりな『動き』が必要になります」
 いつの間にか、騒いでいた灰良や閃、桐寿も文乃の説明を聞いている。文乃の声には聞いている者を惹きつける、不思議な力があった。
 「一時的な『動き』でも、龍脈は活性化するかもしれませんし、しないかもしれません。ですが、やってみるだけやってみては、その、いかがでしょうか……?」
 全員の視線に気づいたのか、最後の言葉は消え入りそうに言って文乃が俯く。
 狗凪が何か言う前に、閃はいつものように笑みを浮かべた。もちろん、人間が見れば即心臓が止まりそうなほど、極悪な笑みだ。
 「そうそう。それによ、山に引き篭もって無関心貫いてる妖かしどもも、祭りに釣られて降りてくるかもしれないしな。って言うか間違いなく来るぜ、あいつら」
 確かに宣伝にはなるだろう。しかし祭りだけ参加して、また山に帰られては意味が無い。
 そう言うと、閃はさらにニヤニヤと口の端を上げた。
 「だぁから、脅すんだよ。『祭りに参加したけりゃ、町作りを手伝え』ってなぁ……」
 「げ、外道だ……」
 その場にいた一同の心境を代弁して、桐寿が宙を仰ぐ。
 狗凪はこめかみをさすり、もうこの流れを変えることはできないだろうと悟った。
 「わかった、わかった。だけど俺は今の状況でいっぱいいっぱいだ。だから……」
 「もちろん、祭りの準備は俺たちでやるっつーの。なぁ?」
 閃が聞くと、灰良が真っ先に手を上げる。文乃も桐寿も、磯女すらも身を乗り出して頷いた。
 「どうせやるなら記念日にしたらどうだい?それなら毎年祭りができる口実になるだろ」
 「それ、良い考えですね。妖かしの記念日……なんだか不思議な響きです」
 「わーい! お祭りって私初めてだよ! 皆で踊るんでしょ?」
 「そうだね。盆踊りの時期は過ぎちゃったけど、俺達の祭りだし、踊っても別にいいか。場所はどこにする?」
 「そりゃ、学校以外にありえねーだろ。校庭の草が邪魔だけどな……かまいたちにやらせるか」
 恐ろしいほど速やかに、祭りに関する様々なことが決まっていく。ぼうっと聞いているだけの狗凪の前で、日程と場所、店の位置や〝妖〟員集めまで。
 楽しいものに関しては、一致団結するのが妖かしである。熱のこもった論議を、狗凪は憮然として聞き流す。
 ──やっぱり、俺なんていないほうが、物事は進みやすいんじゃないか?
 嫌味のひとつでも言ってやりたい気分だ。
 嫌なことばかり押し付けられているようで、狗凪は腕を組んだまま、押し黙った。

 「ねぇ、狗凪」
 不意に呼ばれ、思わず顔を上げる。
 議論の輪から外れた灰良が、隣に座っていた。
 「ねぇ、狗凪は町を作ってるんだよね」
 「……そうだ」
 苦々しい思いで応えると、灰良は砕けた笑みを浮かべた。
  気がつくと、全員議論を止めてこちらを見ている。
 「そっか。狗凪の町なら、安全だよね。来年もこうやって、お祭りの話ができるよね。私ね、ずっと海にいたんだ……陸にはおばあちゃんがいたけど。陸地は危ないから、ずっと海で泳いでた。だからお祭りって、音だけしか聞いたことがなくて」
 ああ、と曖昧な相槌を打つ。灰良が静かに続けた。
 「笑い声とか、笛と太鼓の音とか。あと、香ばしい何かが焼ける匂いとか……絶対楽しいんだろうなって思ってた。いつか、人間に交ざってお祭りに行こうって思ってた。だけど人間が滅んじゃって、もうそんなことやってる場合じゃないんだってわかった」
 座布団の上で膝を抱えて、灰良は独白のように言う。場は先程とは打って変わって、静まり返っていた。
 「それなのに、今こうやって皆でお祭りの話してる。妖かしだけのお祭りなんて、なんだか夢みたい。ねぇ、狗凪。私よくわからないけど、人間がいなくなっちゃって、皆大変なんだよね? でも、狗凪がここを作ってくれたら、来年も……ううん、ずっとずっと、お祭りできるよね?」
 どう答えていいのかわからず、狗凪は俯く。
 確約など、できるはずもない。いつまた烏天狗のような一派が現れて、この里に押し入るかもしれないのだ。
 いや、それ以前に、この里の土地が枯れてしまえば、何もかも終わってしまう。
 狗凪は先ほど閃が示した茂みを思い出し、頭を横に振った。
 ──里は、危機に瀕している。
 うまくいくかどうかもわからない町づくりに縋り、なんとか体裁を保っているが、恐らくほとんどの妖かしが灰良と同じ不安を抱いている。
 それは今、狗凪を見つめる全員の瞳から汲み取ることができた。
 
 長い沈黙の後、狗凪は小さく息を吐いた。
 「もちろん……と言いたいところだが、俺には約束できない」
 灰良が息を呑んだ。あるはずのない彼女の瞳が、悲しげに曇っている。
 狗凪は続けた。
 「一年くらい前、唐突に人間たちがいなくなった。何の予兆も、前触れもなかった。俺たち妖かしが、人間のようにならないとは限らない。寝て起きたら、知っているものが全部消え失せてるなんてこともあるんだ」 
 ありえない物事を、絵物語だと笑い飛ばせていたのは過去のことだ。人間の目からすれば『ありえない』の代表のような妖かしですら、この世界が永遠に続くものだと、少なくとも明日明後日どうにかなるものではないと、信じていた。
 だがその思い込みは、あっさりと覆された。
 裏切られたみたいなものだ、と狗凪は思う。一体誰に、どんな風に裏切られたのかもわからない。そもそもこの町と、人間と、妖かしの間に、何の約束もなかったはずだ。妖かしは昔から自由の体現者なのだ。それなのに、裏切られたという気持ちが、どうしても抜けなかった。
 「だから、来年はおろか明日のことも約束できない。ひょっとしたら、今やってることも全部無駄なのかもしれない。でも……」
 俯いても、言葉が浮かばない。
 人間の町に住む理由も、お祭りも、馬鹿馬鹿しいと一蹴してしまうのは簡単だ。気力を失くして山に引き篭もっている歳経た妖かしのように、じっとしているほうが楽に決まっている。狗凪には、昔を懐かしがる妖かしの気持ちがよくわかった。
 でも。
 「文乃様の言う通りだ。明日や、来年や、他の里のことを考えるのは、いい加減ウンザリだ。訪れてもいないのにあれこれ心配したって仕方がない。なぁ、閃。俺からもひとつ提案させてくれ。その祭りの名前、決まってるのか?」
 唐突に聞かれて、閃は面食らいながら応える。
 「いや。特に何も……」
 「だったら、頭に『第一回』って入れてくれ」
 その場にいた全員が、一瞬狗凪の言葉を理解できずに困惑する。閃が最初に狗凪の意図を汲み取り、にやりと笑った。
 「なるほど。ますます文化祭みたいだな」
  遅れて意味がわかった他の者も、顔を綻ばせる。ただ一人、灰良だけは最後まで不思議そうに首を捻っていた。


 かつてか弱い存在だった人間が、なぜ世界を支配できたのか。
今ならわかるような気がする。
 彼らは、成長するしかなかったのだ。どんな犠牲を払っても、繁栄し、新しい土地を見つけ、同胞を増やしていく。それ以外の選択肢など存在しない。
 人間が舞台を降り、妖かしたちが替わりに立った今、今度は妖かしが前に進むしかなくなった。
 窮屈で、どうしようもない模倣。
 忌々しく、それでいて拒否することもできない。
 否が応でも明日のことを考え始めた時、人間が抱えていた不安や憂鬱が、初めて理解できたのだ。
 しかしそれでも、後戻りはできない。
 どんなに明日を恐れようと、進み続けるしかない。かつての人間と同じように。
 無力を自覚した時にできることなど限られている。だから、限られていることの中で、できることをしていくしかない。明日のことを考え続ける他無い。
 
 ──どうか、明日が今日よりも良い日でありますように。
 人間は、そんな気持ちのことを、『願い』と呼んでいたような気がする。
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