「意外とあっさりOKしたじゃねぇか。死にたい死にたいって言ってた割には素直だな、オッサンも」
 閃はあっけらかんと言って、道端の石を蹴り飛ばした。
 薄暗くなりかけた道を、狗凪、閃、桐寿とアレクが並んで歩く。
 ほとんどが森でできている里の内部を、慣れない者が動きまわることができない。獣道のような通路は巧妙に隠されており、初めて訪れたものはまず迷ってしまうだろう。
 アレクは里の様子を物珍しげに観察しながら、ゆっくりと歩いていた。
 「うん? まぁ、諦めたわけじゃないが……これ以上君たちに迷惑をかけたくないというのが本音でね」
 「そんなの気にしないでよ、って言いたいところだけど。ぶっちゃけ死なれたら俺たち本当に迷惑だからさ。思い留まってくれて助かったよ」
 桐寿が本音を漏らすと、アレクは苦笑した。
 「心配をかけてすまない。しかし、彼女の言っていた言葉を思い出したんだ。口癖のように言っていた言葉を」
 「あ、ひょっとしてさっき言ってたやつ? 『人生は続く』だっけ」
 聞こえていたのか、とアレクは恥ずかしそうに頭を掻く。
 「そう。なんとなく、今の俺にぴったりだと思って。俺も彼女も人間じゃなかったが、こうなってしまえばあまり違いはないな」
 人間と妖かしは違う。それは当たり前といえば当たり前のことだったのだが、人間が滅亡した今、その境が揺らぎつつある──と、狗凪は感じていた。
 否、揺らぐというよりも、立場が入れ替わったと言うべきだろうか。
 人間をあざ笑い、人間に憎しみを向けていた妖怪は、その対象を失い、呆然としている。そして、かつての人間が負うべきだった『生』という名の業を、今や妖怪が背負い始めている。このアレクという狼男のように。
 それが良いことなのか悪いことなのか。狗凪には判別できなかった。



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 数日の間、里に新しく住むことになったアレクの住居を探して、狗凪たちは里周辺を巡り歩いた。
 一言に妖怪の里と言っても、明確な線があるわけでもなく、少し外れたところには人家さえある。狗凪は人間たちのかつての集落を探索し、やがて一軒の家を見つけた。
 町外れにあるにしては真新しいその家には、どうやら若い夫婦とその子供が住んでいただけらしい。
 狗凪は、家で消えたであろう男性の洋服を片付けながら、アレクを振り返った。
 「とりあえず、この辺りは片付いた。あとはそっちでなんとかしてくれ」
 「ありがとう、助かったよ。しかしいいのか? こんな良い家に住んでしまって」
 「問題ないさ。どうせ俺たち妖かしはどこかの木の上か洞穴で休むんだし、そもそもこの家の主はもういない」
 アレクの住居にこの民家を選んだ理由はもう一つある。長である玄亥が住む館から、この集落がよく見えるのだ。
 見張るというわけではないが、用心するに越したことはない。
 アレクはそのことを知ってか知らずか、微笑みながら頷いた。
 「それもそうだ。……ところで彼らは何をしているんだ?」
 彼ら、とはもちろん閃と桐寿のことだ。広々とした庭で、彼らはおもちゃの水鉄砲を振り回して遊んでいた。
 「わはははは! おい桐寿! お前全然当たってねーじゃねーか!」
 「うるさいなー! 閃がちょこまか動きすぎなんだよ!」
 言葉で応酬する間にも、水しぶきが勢い良く飛んでは消え飛んでは消えていく。庭にはちょっとした虹がかかりはじめていた。
 先程から努めて閃と桐寿を見ないようにしていた狗凪は、呆れ返った息をついた。
 「……気にしないでくれ。あぁいう奴らなんだ」
 「そうか。しかし楽しそうだ。水鉄砲で遊んだことはないが、後で仲間に加えてもらえるかな」
 明るく照り返す庭を眺めながら、アレクは子供のように笑って言う。細めた目は、どこか懐かしいものを見つめているようだった。
 外からは絶えず閃と桐寿のはしゃぐ声が聞こえている。
 「不思議なものだ。そう思わないか?」
 「何が」
 「この光景だ。我々のことを見たら、人間はなんと言っただろうな? この家の住人たちは」
 どこかで体験したような光景だと、アレクの問いとは別のことを、狗凪はぼんやり考えた。そういえば文乃の屋敷の庭も丁度こんな感じに明るく、狗凪は彼女と室内から外を眺めていた。
 だが今は、あの時よりももっと騒がしさに満ちている。
 「……人間は、もういない」
 狗凪は零すように呟いた。
 いなくなってしまったものが、何かを考えることはない。だが、想像することはできる。この家に住んでいた家族のこと。狗凪の目の前で消えた男のこと。人間の血が吸えずに死んでいったアリスという吸血鬼のこと。
 それは全て考えることのできる者、即ち人間の特権だったはずだ。
 けれど。
 人間はいない。どこにもいない。表舞台から消え去り、二度と戻ってこない。
 残されたのは、舞台に上がることすらなかった人外のみ。
 「俺たちは人間じゃない。だから人間みたいなことをする必要はなかった。でもひょっとしたら、これからは違うのかもしれない」
 独り言のように言った狗凪に、アレクはちらりと視線を投げかけ、小さく肩を竦めた。
 「そうかな。もしかしたら、ずっと昔から俺たちは人間を真似ていたのかもしれない。気づかなかっただけで」
 「あぁ。真似事だった。でももうごっこ遊びは終わりだ。永遠に」
 アレクは面白がっているように見えた。背伸びしながら開け放たれた窓に近づき、閃と桐寿に手を振る。
 閃は水鉄砲でびしょ濡れになりながら、アレクに叫んだ。
 「オッサンも来いよ! 狗凪も! なんだったら三対一でも良いぜ!」
 「すぐ行くよ」
 アレクはそう返事すると、狗凪のほうを振り返った。

 「俺はアリスを失ったが、君たちにはまるで最初からアリスなんていなかったように思うだろう。いや、そもそも吸血鬼の存在自体知らなかったんじゃないか? もしもそうだとしたら、アリスを知っているのは俺だけになる。それ以外、彼女がこの世界にいた記憶は無い。同族は皆死んでしまったからな」
 「それが死ぬのを思いとどまった理由か?」
 狗凪が聞くと、アレクははにかんで頭を掻いた。
 「そういうわけじゃないが……俺が自死を選ぶのは『不自然』なんじゃないかと思ってな」
 「不自然?」
 「そう。俺もアリスも、この光景も、忘れ去られるのが『自然』だ。だから完全に何もかも消え去るまで、そのままでいよう、と思ったんだ」
 上手く説明できないが、と少年のように照れるアレクに、狗凪は呆れた笑いを浮かべた。
 「そっちがどう考えようが自由だけど、あんまりこんめてると、軒先をびしょびしょにされるぞ……もう遅いかもしれないけど」
 すでに水しぶきは窓にもかかり始めていた。アレクは大げさに悲鳴を上げ、笑いながら外へと駆け出して行く。
 すぐに閃と桐寿に交ざり、水鉄砲を振り回し始めたアレクを、狗凪は少し涼しくなった室内から目を細めて見つめた。
 明るい夏の日差しの下では、どこに悲しみがあろうとなかろうとまるで関係が無いようで。あの、文乃の館で覚えた不安感や焦燥感とは違う、安らぎのようなものを、狗凪は感じ取っていた。


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 九月に入り、狗凪は閃や桐寿を伴って、人間の町へと出かけた。
 アレクの倒れていた海岸沿いの岩場にも何度か足を運んだが、異変は特に見当たらなかった。流れ着いたものは多く、大抵は正体不明の木くずだったり、どこかの漁船だったりした。

 狗凪は人気の無い本屋から地図を手に入れ、町の地形を照らしあわせて見た。
 町は北の山に近くになるほど狭く、高くなっている。山からは細い川が流れ出ていて、そのまま南の海へと流れており、山と海に挟まれたような町はどこか窮屈そうに見えた。
 これでも昔は栄えた港町であり、狗凪の持つ地図には、かつての繁栄を偲ぶ文章が小さく付け加えられていた。その頃を一番良く知る狗凪は、どこか複雑な思いで地図を眺めた。

 「なぁ? 俺らは一体何しに町まで来てるんだよ。使えるものとか、そもそも何にどう使うのか知らないから報告のしようが無いっての」
 タオルを頭から被り、閃が愚痴を零す。
 九月に入ったというのに、まるで涼しくなる気配が無い。うんざりしているのは閃だけではなく、他の妖かしたちも、中々降らない雨に気を揉んでいるらしい。
 狗凪は地図から顔を上げ、無意識の内に空を仰いだ。
 「とりあえず、まだ壊れてないものや綺麗なものを探してこよう。本や衣料とかも、新品は貴重だろうから」
 「それはいいんだけどさ、そろそろ帰らないとまた厄介事に巻き込まれるんじゃない? なんか最近、この辺も物騒だし」
 「物騒?」
 狗凪と閃が揃って桐寿の顔を見た。人一倍臆病なことで知られる桐寿は、小さな小動物のように頷いた。
 「そうそう。俺の知り合いの狸のおっちゃんがさ、人間の町で見慣れない妖かしを見たって言っててさ……」
 「アレクのことじゃねーの? あいつも暇なときはこの辺りうろうろしてるらしいから」
 気だるそうに言う閃に、桐寿は首を横に振る。
 「違うって。狸のおっちゃんは古株なんだけど、見たこともない妖かしでさ……なんか、凄く尖った顔をしてたって」
 尖った顔の妖かしとは、確かに奇妙だ。狐狸の部類でも尖った顔とまではいかないだろう。桐寿は腕を組んで唸り始めた。
 「それと、あと一つ特徴があったって言ってたな……うーん、なんだったかな。思い出せない」
 ぶつぶつ言っては首を傾げる桐寿に、狗凪は地図を閉じた。どうせ何が見つかっても見つからなくても、大して変わりはしない。
 「じゃあとりあえず、隣の地区を見て終わりにしよう。用心するに越したことはないから」
 「よっしゃ、超特急で終わらせようぜ! 済んだら沢にでも行くか!」
 狗凪が歩き出した時には、閃は走りだしていた。本当に暑さを感じているのか疑うほど、活き活きとしている。
 遠ざかる閃を見つめながら、桐寿が乾いた笑いを零した。
 「あっはは……あー、なんていうか、俺時々閃が凄く羨ましい……」
 「……なんとなくその気持はわかる」
 桐寿が針のような黒髪をぼりぼり掻く。
 狗凪はふと、桐寿が『』という妖怪だったことを思い出した。
 狗凪と出会った頃から、桐寿は一度も妖怪らしい振る舞いをしたことがない。桐寿はかつて、あまりにも永い年月を人間に化けて過ごしていた為、元の獣の姿のほうに違和感を覚えるのだと狗凪に打ち明けたことがあった。妖怪としての知名度はあまり高く無く、それ故ひっそりと争いごとを避けて暮らしてきた。
 だからだろう。桐寿は閃の傍若無人な振る舞いを、羨望の眼差しで見つめている節があった。
 「まぁ、あいつにはあいつの悩みくらいあるんじゃないか?」
 「な、悩み……ごめん、俺、閃の悩みってぜんっぜん思い浮かばないや」
 「言い出しておいてなんだが、俺も思い浮かばない」
 狗凪と桐寿は顔を見合わせ、ふっと笑いを零した。
 遠くで閃が手を振りながら、二人を呼んでいる。
 「おーい、さっさと行こうぜ! 今日こそ河童の奴を溺れさせる!」
 恐ろしいことを笑顔で言う閃に、狗凪と桐寿は脱力しつつ走り始めた。
 
 小さな港町の空は、今日も澄み渡る空が広がっている。遠くに浮かぶ積乱雲も、雨までは呼び込めそうもない。
 既に夏になって一度も雨が降っていないことに、狗凪も他の妖かしも、まだ気づいていなかった。

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