久しぶりに夢を見て、正直、ほっとしている。
 ……いつもとまったく同じ内容。俺のような奴にとってはありふれていて、むしろ懐かしいくらいの悪夢だ。人間はどんな環境にも慣れると習ったが、身をもって思い知る羽目になるとは思わなかった。
 
 『慣れる』で思い出したことがある。俺のこの、動かしづらいことこの上ない左人差し指のことだ。
 包帯でぐるぐる巻きになっているからほとんど左手が使い物にならないが、俺はこの不便さに慣れつつある。
 こうなったのも、俺がこの館で住みはじめてからの『慣れ』が原因なんだが……。
 
 一昨日の昼食を作っていた時の話だ。
 最初の頃は恐る恐る作っていた料理も、今じゃ片手間に数品作れるくらいには上達していた。一言でいえば油断していたんだ。鼻歌を歌って野菜を切りながら、ちょっと塩が必要だなとかぼんやり考えていた俺は、『ざくっ』というあのなんともいえない感触で一気に現実へと引き戻された。
 いつかはやるだろうと思っていたが、実際目の前に血まみれのまな板があると心が萎んだ。悲しいかな、こういう時でも俺は医者だった頃の経験から傷の程度を調べてしまう。結論としては大したことなかった。ただちょっと派手に出血しただけだ。
 次にやることと言えば止血だな、などとのんびり考えながら何気なく振り返り──そしてヴィクトールと目が合った。

 ヴィクトールは俺の指を見るや否や、血の気を失った。俺は慌てて笑顔で取り繕う。
 「ヴィクトール、悪い! ちょっと指先を切っただけだから……」
 俺の言葉が終わらないうちから、ヴィクトールは部屋から走り去っていく。
 あぁ、またやらかした……俺は心の底から自分にがっかりした。子供を怯えさせてどうするんだ。
 とにかく止血しないことには始まらない。切った指を抑えながら手ごろな布を探していると、バタバタと駆けてくる音が聞こえて、ヴィクトールが戻ってきた。息を切らせて何かを掲げている。
 「せ、せんせい、あの、これ!! 」
 それは一巻きの包帯だった。救急箱の中からとってきてくれたのだろう。「おぉ、ありがとう」と受け取ったはいいものの、指に対してあまりにも大きい。
 だが、ヴィクトールの今にも泣きそうな目は、『早く止血して』と訴えてくる。そうしたいのは山々だが、さすがにこれを巻いたら左手が使えなくなりそうだ。
 どうしようかと迷っていると、ヴィクトールがぽつりと聞いた。
 「せんせい……いたい?」
 「いや、そこまで痛くないから」
 そう言って安心させようとしたが、ヴィクトールはまだ泣きそうな目をしている。見ていて辛くなるくらいの狼狽え方だ。
 「ぼく、いたいのわからないから……いたいのはダメなんだよ、せんせいも、いたいのはダメだから」

 ヴィクトールは痛みを感じない。だから他人の痛みもわからない。
 だが、生来の優しさが、怪我=痛い=だめなこと、という理解をさせているのだろう。恐らく彼は俺のささやかな怪我に、世界一心を痛めているのだ……と気づいてしまった。
 だから「いや、こんな傷ちょっと経てばすぐ治るさ」とは言えなかった。俺はヴィクトールのために、ちょっと大きすぎる包帯を左手に巻き付け始めた。

 これが一昨日の出来事。要するに、慣れだ。右手しか使えなくても日記だって書けるし、意外と悪くない。
 でも、できれば早く治って欲しい……。

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