*****

 子供たちが笑っている。
 きゃあきゃあと声を弾ませて、大きな樹の周りを駆け巡る。男の子も女の子も甲高い笑い声を反響させながら、雪の解けかかった公園の中を縦横無尽に走り回っている。

 不意に弾力のある何かが足に当たった気がして、ミシェルは顔を上げた。座っているベンチの目の前に、黄色いボールが転がっている。
 「……ごめんなさい!」
 息を切らせて駆けてきた少女は6歳くらいだろうか。頬を真っ赤にしながらきゅっと眉毛を下げている姿に、ミシェルは思わず微笑んだ。
 「いいのよ。はい、これ」
 分厚いファイルを膝から下ろして立ち上がると、ボールを女の子に手渡す。少女ははにかみ、まるで宝物のようにボールを胸に抱いた。
 「ありがとう」
 「どういたしまして」
 ミシェルは、少女の後ろで兄らしき少年が心配そうにこちらを見ていることに気が付いた。小さく手を振ると、少年は一瞬戸惑ったような表情をしたが、ぎこちなく笑って手を振り返す。えくぼの位置が少女と全く同じだと気づくと、ミシェルはますます相好を崩した。やっぱり兄妹だったのだ。
 少女はボールを胸に抱いたまま、仔馬のように駆けて兄と友人たちの輪に戻っていく。
 その後姿を見送ってから、ミシェルは思い出したかのように脇に退けたファイルを再び手に取った。

 『彼』を巡る物語は、分厚いファイルを以ってしても終わりが近づいている。最後のページには切り取られた新聞記事と、几帳面なほど丁寧に書かれたメモがそれぞれスクラップしてあった。
 すっかり悴んだ指先を動かして、もう何度となく読み返したそれらの文字を目で追う。最後の記事の日付は13年前になっていて、綺麗に保管されていたとは言え、紙は黄色く劣化していた。約束の時間までに読み終えてしまおうと、ミシェルは髪をかき上げて最後のメモに集中し始めた。

 ***

 ところどころに雪が残る歩道はなだらかな坂に続いていた。手入れされた街路樹が整然と並んでいて、その間におもちゃの様な邸宅が行儀よく収まっている。
 住宅街の一番奥にあるこじんまりとした家に辿り着くと、ミシェルはほっと息を吐く。数年前、初めてここを訪れた時とまるで変わることなく、冬薔薇がアーチ状の門に絡みつきながら咲いていた。
 丁度玄関から青年が出てくるところだった。一瞬、どこかで会ったことがあるような気がして立ち止まるミシェルに、青年はあっという顔をして、今しがた出てきた玄関を振り返った。
 「ほら、言ってたお客さんが来たよ!──あ、すみません。ミシェルさんですよね。どうぞ」
 「どうも。あの……?」
 「あぁ、お祖母ちゃんの──と言ってもわからないか。僕はジェフ。ベラルダとローガンの孫です」
 差し出された右手と反射的に握手を交わしながら、ミシェルはようやく合点がいった顔をする。
 「道理で声が似ていると。私はミシェル・クロス。ローガン教授の秘書をしていました」
 「えぇ、祖母からお話は伺ってます。そんなに似てましたか?嫌だな、あのガラガラ声と似てるなんて」
 青年は恥ずかしそうに笑ったが、腕時計を確認すると、慌てた様子で外へと向かった。
 「っと、すみません! 恋人と待ち合わせをしているもので……これから初デートなんです」
 まぁ、と口元を隠すミシェルに、ジェフは照れ隠しのつもりなのかにやりとしてみせる。颯爽と自転車に跨り、遠ざかっていく後ろ姿を見送っていると、玄関の奥から聞き覚えのある声が聞こえた。
 「ジェフ!遅くならないようにね!あら……もういないの」
 振り返った先に、シャム猫を抱いたベラルダが立っている。老婦人はジェフと同じ菫色の瞳を細めた。
 「まぁ、まぁ。久しぶりね、ミシェル。元気にしてた?」
 「えぇ。『先生』もお変わりないみたいですね」
 玄関の扉を開けながら、ベラルダはわざとらしく顔を顰めてみせた。
 「止めてちょうだいな。私が教壇に立っていたのはもうずっと昔の話なんですから……さぁ、外は寒いわ。中へどうぞ」

 これでもかとクッションを乗せたソファに座ると、窓から庭を見渡すことができた。薔薇以外にもたくさんの花が植えられていて、冬だと言うのに鮮やかだ。曇天の暗さにグラデーションを投げかける花々を眺めていると、ベラルダが紅茶を持ってきた。
 「庭仕事くらいしか生きがいがないのよ。それと美味しい紅茶を淹れることと、とびきりおいしいスコーンを焼くことと……数えてみたら意外とあるわね」
 そう言ってお茶目にウィンクするベラルダに釣られて、思わず笑ってしまう。近況報告を兼ねた雑談が一息つくと、ミシェルは紅茶で喉を潤した。
 「……先生、今日はこのファイルをお返ししようと思って来ました」
 そう言って脇に置いていたファイルをローテーブルに置くと、ベラルダはその年季の入った紙の束を眺めた。
 「律儀ねぇ。あの人がなんて言ったか知らないけど、もう墓下の住人のことなんて気にしないでいいのよ」
 「そういう訳にはいきませんよ。ローガン教授は私の恩人なんですから」
 ローガン・オルブライト教授は、ミシェルが覚えている限り、最も医療従事者の一般的なイメージからかけ離れている人だった。間違いを犯すと怒鳴り散らすその姿が不真面目な一部の生徒から恐れられていたのを思い出す。豪放磊落と呼ぶにふさわしい人だったが、数年前病に倒れてからは、その恐ろしさもすっかり鳴りを潜めてしまった。
 ミシェルがファイルを手渡されたのはローガンの病床を見舞った際のことだ。久しぶりに見た恩師のやつれ具合に心を痛めていたミシェルは、ファイルの厚さに困惑しながらそれを受け取った。
 『どうかこれを読んで感想を聞かせて欲しい。これを読むのは、恐らくお前が一番適任者だと思う』
 この資料の山が一体なんなのか聞けないまま病室を後にしたが、結局尋ねる機会は永遠に訪れなかった。ローガン・オルブライトはその年の暮れに亡くなり、ミシェルの手元には分厚いファイルだけが残されていた。
 「資料に目を通して驚きました。教授が束ねていた組織の重要書類がぎっしり入っていたものですから」
 最初は何か後ろ暗い事実の隠蔽を手伝わされたのかと冷や汗をかいたが、読み進めるうちにローガンの言わんとしていることがぼんやりと見え始めた。

 かつて存在していた子供たちのこと。〝アルカディア計画〟と、それを任された一人の男のこと。計画の顛末について……。

 「ずっと考えていました。どうしてこんなファイルが存在するのか。なぜ、教授は私にこのファイルを託したのかと」
 呟くように話すミシェルを、ベラルダは優しいまなざしで見つめる。 
 「教授は、これらの資料を後世に残したいと思っていたんでしょうか。フランク先生の……『彼』をそう呼んでいるのですが、彼が書いた本を出版しようとした形跡がありましたし」
 「『七つの大罪』だったかしら。フランク先生の罪の告白ね」
 ミシェルが頷く。ファイルの中にもそれらしき草稿があったが、肝心の本については見当たらなかった。
 「まぁ世間様に見せられない資料もあったみたいだから、それは難しかったみたいだけどね。だけどそれだけじゃないのよ」
 ベラルダはわずかに声の調子を曇らせたが、すぐに元の調子に戻った。
 「けど、それは後回しにしましょう。さぁミシェル、答え合わせの時間よ」
 そう告げたベラルダの声はかつての教師としての威厳に満ちている。ミシェルは思わず背筋を正して、少しだけ笑った。
 「はい。お手柔らかにお願いします」

 雲間から柔らかい光が差し込み、室内は暖炉の炎とはまた違う暖かさに満ちている。木の枝に残っていた雪が解けて地面に落ちる、とさりとさりという音が微かに聞こえていた。
 「……あの人は後悔していたわ」
 そう切り出したベラルダは、ファイルの中から子供たちの資料を抜き出してため息をつく。7人の子供たちについて詳細に記された紙に、『極秘』のスタンプが押されていた。
 「忙しさにかまけていないで、もっとあいつの話を聞いてやればよかった。子供たちに会いに行けばよかったと、口癖のように言っていたわ。あの人はアルカディア計画の責任者だったのに、子供たちのことにあまり口出ししようとしなかった。フランク先生に任せっきりにしてしまったと、最期まで後悔していた」
 「どうして教授は灰の館から遠ざかったんでしょうか?」
 「……罪悪感、でしょうねぇ」
ベラルダはそう答えて、紅茶を一口啜った。
 「あの人は子供たちから責められるんじゃないかと内心びくびくしてた……と言ったら、何を馬鹿なと思うでしょう。でもローガンは本気で、世間と子供たちを切り離し、親元に帰さなかったことを悔いていた。それを子供たちから指摘されるのを恐れていたの」
 だから先生に任せると言う建前を作ったのよ。ベラルダの出した答えは些かローガンに対して厳しいような印象を受けたが、ミシェルは頷くに留めた。
 「そして、愛弟子であったフランク先生にも同じような罪悪感を抱いたんですね」
 「えぇ。彼の過去を『知らなかった』では済まされないと思ったんでしょうねぇ。でも私個人の意見だけど、フランク先生はあの人のことを恨んでなかったんじゃないかしら」

 ミシェルはファイルをぱらぱらめくりながら、もう一度フランクの足取りを追う。最後にローガンに会ったのは、彼がアダムス機関に保護されてから数か月後だ。その後の足取りは途絶え、メモから彼がアダムス機関と教授から離れていったことが伺えた。
 その前後から、ローガンは何かに取り憑かれたように、子供たちのことを調べ始めている。
 「……子供たちはどうなったんでしょうか。結局戻ってこなかったと伺いましたが……」
 ベラルダは悲し気な表情で首を横に振る。
 「ローガンはトリス邸を5年間、定期的に見張るよう指示した。それでも何の変化も起こらなかった。5年後にはアルカディア計画そのものが闇に葬られたから、その見張りすらも行われなくなった。老朽化を理由にトリス邸が取り壊されたのは、それから3年後のことよ」
 トリス邸は既に更地になってしまっている。土地は売却され国の管轄下になったが、ローガンは度々そこを訪れてはファイルに記録していた。だが最後まで子供たちに関する手掛かりは何も見つかっていない。
 ──本当に、子供たちはこの世界を、フランク先生を、見捨ててしまったのかしら。
 何度考えても、子供たちがこの世界にいない以上答えは出ないままだ。
 ファイルの表紙を見つめて物思いに沈むミシェルに、ベラルダはふっと微笑みかけた。
 「子供たちがどうして帰ってこないのか……あの人も散々悩んでいたわ。だけど子供たちは本当に、フランク先生が大好きだったんじゃないかしら」
 「どういうことですか?」
 「自分たちがいたら彼に迷惑がかかると考えたのよ。これはローガンにも話してない、私個人的な考えなんだけど」
 そう前置きしてベラルダがわずかに姿勢を正す。
 「あの子たちは、もう散々自分のせいで傷つく大人を見てきたわけでしょう。スヴェンやマリーは親から拒絶され、イーニアスに至っては……だからこれ以上大好きな人が傷つかないよう、自分たちがいなくなればそれでいいと考えたのよ」
 「そんな……」
 そんなわけないじゃない、とミシェルは痛いほど唇を噛んだが、結局否定の言葉は出てこなかった。
 自分さえいなければと思わせてしまうほど、追い詰められていたのだろうか。
 否、追い詰められたのだ。
 扉越しに聞いた先生とコンラッドのやり取りは、彼らに何かを決断させるには十分なものだったのだろう。『これ以上ここにいてはいけない』と本能的に察したのかもしれない。
 ミシェルは胸に重い痛みを感じながら息を吐いた。
 「でも子供たちは、決定的な出来事の前からおもちゃや洋服をあちらの世界に持って行っていたような節がありますが……」
 まさかコンラッドの訪問を予想していたのでは、と考えを巡らせていたミシェルに、ベラルダはあっさりと言い切った。
 「そりゃあ、『ひみつ基地』があればどんな子だってそこにおもちゃを持っていくでしょう? きっと最初はちょっとしたお出かけの気分だったのよ。先生には内緒の計画。だけどコンラッドが来たせいで、その計画を変えなくてはいけなかった」
 これは私の想像だけどね、とベラルダが付け足すと、ミシェルは戸惑いの内に口を噤んだ。

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