ジェフ・オルブライトは自転車を駆って、緩やかな坂道を下る。住宅地を抜けて大通りに出ると、そのまま真っすぐ東へ向かった。
 溶けかかっている雪に車輪を取られないよう慎重に──今転べば、人生で最大と言っていいほどの失態になるだろう。緩みがちになる頬を引き締めて軽快に走っていく。ビジネス街を抜けた先に目的の花屋があった。

 そういえば、さっきの人は祖母の長話の犠牲になっているのだろうか。
 ミシェルと名乗ったあの女性は、祖父の元秘書だった。幼い頃に一度だけ、誰かの葬儀に参列した時に見かけたことがあったが、その時は随分年上の、大人びた女性のように思っていた。しかし先程言葉を交わした感じからすると、大して歳は変わらないのかもしれない。
 ミシェルは自分のことを覚えていないのだろう。子供の頃から引っ込み思案で、特に異性と会話するのは苦手だった。この歳になるまで、女の子と会話した回数なんて片手で数えられるんじゃないかと思えるくらいだ。恐ろしかった祖父が影で嘆いているのは知っていたが、どうすることも出来なかった。
 情けなくて、用心深くて、オドオドしている奴。ジェフは自分をそう評価していたし、それが自分だと信じていた。
 
 だから、今から会う『彼女』の事も、最初は妙な人だと警戒していたのだ。ジェフはその時のことを思い出してクス、と笑う。

 その女性は、通勤途中にある花屋の前でかがみ込み、熱心に何かしているようだった。それまでそこに花屋がある事すら覚えていなかったジェフは、思わず立ち止まって女性の後ろ姿を眺めた。
 初めて見る人だった。長い金の髪を揺らし、花屋のものと思わしきエプロンをつけている。『何か』に熱中している後ろ姿に、気後れよりも好奇心が勝った。
 ジェフは生まれて初めて自分から女性に声をかけた。

 「あの……何してるんですか?」

 ぱっ、と振り返った女性は、たくさんの花をつけたカランコエの鉢を抱えていた。その鉢に鼻を近づけて、嗅ぐ仕草をする。
 「もしかして、花の匂いを嗅いでいた……とか?」
 ジェフが聞くと、女性はにっこり笑って頷いてみせた。その時になって初めて、ジェフは女性の目が閉じられたままだと気づいたのだ。
 彼女は、盲目だった。

 会話を重ねても、彼女が『不思議』としか言いようのない女性であることは揺らがなかった。
 2週間前にこの街へやってきたという彼女は、それまでの記憶をほとんど持っていない……というより、あまりに奇妙な記憶ばかり持っていて、なんの役にも立たないのだと告げた。現にジェフとの会話が成り立たず、二人揃って混乱することもしばしばだ。
 だが、彼女との会話は楽しかった。彼女の思い出はおとぎ話のようだったし、やること成すこと全てに新鮮な反応を返してくれる。子供のように笑い、怒るべきところで怒る彼女は、ジェフにとって初めて接する種類の女性だった。

 『彼女を手離してはいけない、もう二度と彼女のような女性に出会うことは無い』──数日前、彼女と話していたジェフは突然そんな気持ちに駆られた。彼女とずっと一緒にいたい。この人は自分にとって大切な人なのだと、数日間気が付かなかった自身に愕然とした。気づいてしまえばもう普通に振る舞えない。
 ジェフはその日、喉をカラカラにしながら、生まれて初めて女性をデートに誘った。
 彼女が頷くまでほんの数秒しかかからなかったはずだが、ジェフにはそれが永遠のように感じられた。
 
 ****

 自転車を操り、石畳の道を縫うように駆けていく。近道となる細い路地を通り抜けると、あっという間に彼女が働く花屋だ。
 遠くにその人の姿を見つけて、ジェフは胸を高鳴らせる。薄水色のワンピースに真っ白なコートを着た彼女は、曇り空でも良く映えた。
 ──今日は何の話をしよう。映画の話もいいけど、記憶と同じくらい不思議だという、彼女の兄弟についてももっと聞きたい。
 逸る心を抑えながらベルを鳴らす。きっとこの音は彼女にも届いているはずだ。ジェフは微笑んで、自転車のペダルを漕ぐ足に力を込めた。
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