ニーナをベッドに送り届けて部屋に戻ると、どっと疲れが押し寄せてきた。書きかけの手紙を丸めて捨てる。こんなことをしても無駄だという気持ちと、何かしなければという逸る気持ちが、ますます空回りしていく。
 奴らが来るのは今日か、それとも明日か──一度引き下がったのは、恐らくこちらを精神的に追い込んで服従を誓わせたいからだろう。何をしても無駄だと思わせたいのだ。フランクは大きく息を吐き出して机に突っ伏した。
 少し仮眠しよう。陽が上ればもう少しマシな考えも浮かぶかもしれない。
 目を閉じるとあっと言う間に眠気が襲ってくる。恐れていた悪夢を見る暇も無く、フランクの意識は純粋な闇の中へ滑り落ちていった。

 ***

 寒さで目を醒ますと、室内は既に白んでいた。窓の外は霧に覆われていたが、陽の光を浴びて明るく輝いている。
 のろのろと身を起こしたフランクは、霧の向こう、見慣れたはずの庭の風景に違和感を覚えて目を細めた。何かが足りないと頭の中で一つずつ数えていく。雪を被った針葉樹、鈍色に沈む柵や道、それから……。
 ニコラの樹。
 いつも目にしていたはずのニコラの大樹が、どこにも見当たらない。
 そんな馬鹿なと瞬きをして、もう一度庭を凝視する。だが何度見てもそこには白い空間が開いているだけだった。
 急に不安を覚えて室内を見渡すと、やけに静かなことに気が付いた。いくら雪の早朝でもこれほど音が無いのは不自然じゃないか。急速に膨らんでいく焦燥感を押し殺して、フランクは部屋を出た。

 隣の子供部屋は、もぬけの殻だった。

 階段を降り、一階の部屋を一つ一つ見て回る。洗濯室、風呂、居間に物置……。
 「おい、誰かいないのか?」
 呼びかけても返事は無い。がらんとした屋敷の中に子供たちの姿を探すが、寒々しいばかりで誰の影も見当たらない。
 「スヴェン! イーニアス! ニーナ!」
 胸騒ぎは徐々に強まっていく。
 「マリー! ヘルガ! ヴィク! どこにいるんだ!」
 玄関を飛び出し、ニコラの大樹へと向かう。さっきは何かのはずみで二階から見えなかったのかもしれない。子供たちはニコラの洞の中で遊んでいるのだろう。
 雪を踏みしめて向かった先で、フランクは呆然と立ち尽くす。
 ニコラの大樹があった場所は地面がむき出しになっているだけで、あとは何も無かった。

 そんな馬鹿な。これは何かの間違いだ。
 ぐるぐると館の周りをまわりながら、フランクは子供たちの名前を一人ずつ呼んだ。どこにいるんだ、怒ったりしないから出てこい……すべての呼びかけは虚しく木々の間に吸い込まれていく。それでも木陰のどこかに、もしくはいつも遊んでいた階段の下に、誰かの影が無いかと手当たり次第に見て回ったが、手がかり一つ見つけることはできなかった。
 そんな馬鹿な。
 他の子供たちはともかく、二コラまでいなくなっているのは不可解としか言いようが無い。彼は大樹と一体化している特性上、その場から動けないはずだ。
 フランクは一旦館の中に戻ると、居間にあった椅子に腰かけた。冷静に考えようとすればするほど焦りの感情が湧いてくるが、具体的にどうすればいいのか皆目見当もつかない。まるで頭の中が空転しているような感覚に、フランクは髪を掻きむしった。
 ──ふと顔を上げた先に見慣れない紙があるのを見つけた。食卓テーブルの中央に、あまりにも堂々と置かれていた為今まで気づかなかったのだ。裏返すと、カラフルに描かれた絵と文字が紙からはみ出さんばかりに踊っていた。ニコニコ笑う子供たちと、一人の大人。


 『   せ      せ          さ              ら
              い        よ       な
        ん                ぉ                 』


 フランクはそこに描かれているものを理解しようとして紙を眺める。見慣れた子供たちの絵はとても楽しそうで、それに何か別の意味があるのだろうかと必死に探し求めるが、何の答えも得られない。

 「そうか」
 随分と時間が経った後、フランクが掠れた声で呟いた。

 「ニーナ、お前が連れていったんだな」

 ──ニーナ、つよくなったからね、だからだいじょうぶだよ。
 ニーナの神隠しの力は、〝他者に及ぶほど〟強くなっていたのだ。寝言だと思っていた少女の言葉は真実でもあった。
 ヘルガの上着のように、子供たちの大切なものが少しずつなくなっていたのも気のせいではなかったのだろう。もしかすると、前々から計画していたのかもしれない。子供は秘密基地があればそこに宝物を置こうとする。
 別の世界へただ遊びに行っただけなら、早い段階で帰って来るんじゃないかと言う期待は、しかし現状を考えば否定しなければならなかった。あちらとこちらを行き来できるのはニーナだけ。だがニーナはこう言っていた。

『みんなをまもるから』
 
 あれは、きっと戻ってこないという意思表明だったのだ。子供たちにとって危険極まりないこの世界から逃げて、安全な世界へ行くことは当然の結論とも言えた。そして、例えこちらの世界が安全になっても、ニーナたちがその事実を知る術はない。
 だから『さようなら』なんだ。
 フランクは天井を仰ぎ見た。
 恐らく昨日の夜、ニーナは自分も連れていこうとしたのだろう。俺が大人だったから? ニコラのように大きな存在まで連れていけるほどの力も、自分には及ばなかった。とにかく彼女の試みは失敗し、彼女はその事実を詫びたのだ。せんせいごめんなさい、だめだった、と。

 そして、子供たちはいなくなった。

 
 晴れかかっていた空が再び翳り始め、霧は色を濃くしてゆく。館はその名の通り灰色に沈んだ。

 フランクは天井を見上げたまま、やにわに笑い始めた。喉を鳴らした笑いはやがて少しずつ弱まり、嗚咽へと変わっていく。
 顔を手で覆いながら、フランクは泣き続けた。

 ──また・・、置いていかれたんだ。俺は。

 あとからあとから大粒涙が頬を伝い。
 そうして館には、灰のように、一人の男が取り残される。

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