全く気にしていなかったと言えばウソになる。だって、先生の部屋だから。
 ヘルガは見慣れた扉の前で立ち止まり、心の中でそう呟いた。
 館の中をいつも『探検』と言って調べ回っている男の子たちでも、先生の部屋を調べようとはしなかった。そもそも調べる必要がない。出入りは自由だし、いたずら以外で訪ねても怒られることはなかった。この部屋には何にもない。ちょっと難しそうな本が並んだ本棚とベッド、机くらいしか置かれていない。
 それでも、やっぱり気になる。このチャンスを逃したくない。

 ***

 「ヘルガ、悪いんだけどニーナの上着をとってきてくれ」
 薄着のまま外に遊びに出ると言って聞かないニーナを宥めながら、先生が言う。ヘルガは二つ返事でいつもの仕事を請け負った。有り体に言ってしまえばお手伝いだ。
 先生からは、ヘルガはわがままばかり言って困らせる他の子供とは違い、素直に指示に従うと評されていた。あまりにも聞き分けがいいので、もうちょっと他の子と遊んで来たらどうだと勧められることもあったが、ヘルガはいつも首を横に振った──私は、先生の近くにいるのが好きだから。
 だからその日もニーナの上着をとりに、自分たちの部屋へと向かった。
 二階にある広い子供部屋にはベッドが敷き詰められている。ベッドの隣には衣装タンスが備え付けられているが、これは元々客室にあったものだった。
 窓際にニーナのベッドがあり、その上に上着がくしゃくしゃになって置かれている。ヘルガは上着を手に取ると部屋を出た。
 廊下に出て、何気なく後ろを振り返ると、先生の部屋の扉が目に入った。──今なら部屋に入れる。そう気づいて、ヘルガは内心動揺した。
 別に禁止されているわけじゃない。だけど誰からも邪魔されず、自由に見て回れるのは今しかない。
 ヘルガはどきどきしながら好奇心に負けて扉を開けた。

 部屋の中は前に来た時と変わらず殺風景だった。小物や写真の類は一切見当たらず、背の高い本棚の隣に書き物机があるばかりだ。
 机の上に羽根ペンとインク瓶があったが、何かを書いていた形跡は無い。ヘルガは椅子をずらし、机の引き出しに手をかけた。
 ──鍵がかかっている。
 もう諦めようかとも思ったが、ヘルガは室内をきょろきょろと見回した。
 先生が鍵を持ち歩いている可能性もあったが、落としたりすることを考えると、どこかに置いているのかもしれない。
 椅子をひっくり返してみても、鍵は無かった。同じく机の下やベッドの下にも無い。
 ふ、と見上げた視線の先に、本棚があった。ヘルガには手の届きそうもない高さの棚に、銀色の何かが光っている。丁度、大人の男性が手を伸ばして届くくらいの高さだ。
 
 確かにニーナやイーニアスなら届かない場所にある。今にも落ちそうな位置にあるが、本棚を揺さぶるわけにもいかない。
 だからこそ、ヘルガは心臓を高鳴らせた──自分ならあの鍵を取れる。そう、子供たちの中でも唯一『電気を操る』ことのできる、自分なら。
 
 深く深呼吸してから、ちらりと見えている鍵に集中する。あの鍵が鉄でできているなら磁力で引き寄せられるはずだ。
 しばらく試行錯誤していると、鍵がわずかに動いたような気がした。次の瞬間、物凄い勢いで本棚から落ちてきて、鍵がヘルガの手にぴたりとくっつく。逸る気持ちを抑えて小さな鍵を鍵穴に差し込むと、引き出しが開いた。
 
 どちらかと言えば物の無い机の上と違って、引き出しの中は書類の束で雑然としていた。これと言って珍しいものは何も入っていない。
 ヘルガは小さくため息をつき、書類を何枚か捲った。難しい単語だらけでまるで読めない。
 最初に感じていた好奇心が少しずつ萎んでいくのを感じる。何かを見つけようと思ったわけではなく、ただ新しい発見があればと思っただけなのだ。けれど見つかったのは目新しくもない小物と書類ばかり。
 皆のところに戻ろうとして、ヘルガは引き出しを閉める手を止めた。
 先ほどは気づかなかったが、書類の間から細く長いチェーンのようなものが見えている。引っ張ると、銀色のペンダントが姿を現した。小さな楕円をしたその先端部分に、ヘルガは目を奪われた。
 ──もしかしたらこれ、開くんじゃないかな。
 考えた通り、楕円形の部分に爪をかけると二つに分かれた。精巧な仕組みに驚きながら、ヘルガは中に挟んであったものを見る。
 そこにあったのは写真ではなく、一枚の小さな紙きれだった。何か文字が書かれているようだが、難しくてヘルガにはまだ読めない。
 柔らかい筆記体で書かれたその文字は、手紙から破り取ってきたようだ。たった一単語だけがこうしてペンダントになっている意味を考えていたヘルガは、気配を感じて顔を上げた。
 
 「いつまで経っても降りてこないから、心配した」

 いつの間にか傍に立っていた先生は、そう言って苦笑いする。怒られる、と身を固くしたヘルガに先生はただ手のひらを見せただけだった。
 「ほら。それ、返してくれ」
 にこやかな先生の顔と、握っているペンダントを交互に見る。
 普通なら勝手に盗み見たことを叱るはずだ。いつだったか、マリーの日記を盗み見ようとしたイーニアスを、先生が叱っていたのを思い出す。だからこそこの穏やかさは不自然だった。
 「あ、あの、先生、ごめんなさ……」
 謝るヘルガに、先生は手を差し出したまま、無言で笑みを浮かべている。見えない圧力があるように感じて、ヘルガは恐る恐るその手の中にペンダントを置いた。
 「……さぁ。ニーナが下で上着を待ってるぞ。あんまり待たせると、俺まで恨まれそうだ」
 どこか張り詰めていた空気が緩んだように感じてほっと息を吐く。ニーナの上着を持って部屋を出たヘルガは、一度だけ後ろを振り返った。
 扉の隙間から見えた先生は、手の中にあるペンダントをじっと眺めているようだ。優しいような、悲しむようなその視線が自分に向けられるのを恐れて、ヘルガは慌てて階段を下りた。

 ***

 小さな足音が階段を下りていく音を聞きながら、小さく笑う。まさかあの子がこんなことをするなんて。
 油断していたわけではなかったが、他の子の、例えばニーナのいたずらを予想していただけに、真面目なヘルガが部屋に忍び込んで引き出しを開けるのは意外だった。
 ロケットペンダントを開けると、たった一言書かれた手紙の切れ端が入っている。誰が見たところで、この意味を──本当の意味を知る子供はいない。それは最早失われた記憶であり、自分にとっては確かに存在した過去なのだから。
 『妊娠』の一文は、パチリというペンダントの小さな音と共に、再び閉ざされた。

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